日暮れて尚道通し

意識は何故あるのか?
宇宙は何故存在するのか?
今は何故今なのか?
僕は何故僕に生まれたのか?
何故僕が存在するのか?

僕という意識は断続的だ。眠れば意識はなくなるし、夢を見れば不完全ながらも再び意識は出現する。朝起きれば完全に意識は現れる。

無から有が生まれたのか。混沌から有・秩序が生まれたのか。これがわかっても何故僕というものが存在するのかの答えにならない。



世界の始まり、僕の始め、両方に答えられる回答がほしい・・・
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古代ギリシャ哲学~

こんにちは。
問いの答えに迫るには、一つひとつ潰していかねば。。
ということで、まず、西洋の科学・哲学について、
キリスト教との関わりを含めて考えてみたいと思います。

西洋哲学の源流は、
紀元前5、6世紀に始まる
古代ギリシャ思想になると思います。

「万物の根源は水である」

と言ったのは、 タレース。


「万物は火である」

と言ったのは、 ヘラクレイトス。


「それは数だ」

と言ったのは、三平方の定理で有名な ピタゴラス。


それぞれ、自由な発想でいいですよね。


これ以上小さく分割できない、
不生不滅なアトムが世界を構成する
と考えたのは、デモクリトス。

彼の原子論は、後の唯物論や近世の物理学に
大きなヒントを与えていますね。
すごい。


そして、 「無知の知」 といえば、ソクラテス。
プラトニック・ラブで知られる プラトン。
その弟子の アリストテレス。

これらの人が活躍しました。

しかし、こうした古代ギリシャ哲学は、
後に発生したキリスト教の世界に取り込まれていきます。

ローマ帝政下に現れたイエスは、
圧政で苦しむ民衆に 「神の愛」 を説いて回った。

イエスが十字架上で刑死したあと、
その教えは使徒、特にペテロとパウロによって、
広く地中海世界に広がっていきました。

キリスト教の伝道は、
初期にしばしば迫害されましたが、
4世紀初めコンスタンティヌス帝によって公認され、
やがてローマ帝国の国教となり、
392年、異教の礼拝は禁止されるまでになった。

その教義が、為政者にとっては、
甚だ都合がよかったからでしょう。


キリスト教信者たちが、神の権威づけのために
生み出した理屈が 「神学」 であり、
それをなりわいとする人々は 「教父」 と呼ばれました。

やがて、法王を頂点とするローマ・カトリック教会の支配体制が確立すると、
哲学は 「神学の婢」 と成り下がってしまいます。

一切が神中心で、人間の理性が、
自己主張できなくなってしまったのです。

それを端的に表現したのが、
教父テルトーリアヌスの
「不合理なるがゆえに我信ず」

という言葉です。


「合理的なるがゆえに我信ず」 でも
「不合理なれども我信ず」 でもない。

「人間の理性は、原罪によって曇らされた
 極めて不完全なものだから、
 絶対者たる神の力など分かるはずがない、
 不合理だから、疑いがあるからこそ信ずる」


というのです。

真摯な信仰者として知られる、
かのマザー・テレサが生涯そうであったように、
神に対する疑念や不安を押し殺して信じ込もうとする。
これがキリスト教信仰の本質といっていいでしょう。


キリスト教の伝道により、
哲学はすっかり神中心と成り下がり、
自由な発想が無くなってしまい、
しばらくの間、衰退の時代が続いたのです。
14世紀イタリアにはじまるルネッサンスまで。

長くなるので、ここらで区切ります。
自分のブログじゃないのに、
こんなに書いちゃって、すみません。。。(><)

No title

キリスト教の悪い面も、神から見たら何らかの意義があるんでしょうね・・・

デカルトの登場

こんにちは。

究極の問いの答えに迫るため、まず歴史をひもといています。
前回のコメントから続けます。

キリスト教の伝道により、
哲学はすっかり神中心と成り下がり、
自由な発想が無くなってしまい、衰退していきます。

しかしやがて、十字軍の失敗、教会の腐敗、王権伸長などにより、
ローマ教会の権威が否定され、中世キリスト教的世界観から脱して、
人間性の解放が叫ばれるようになります。

14世紀イタリアに始まる ルネッサンス の到来です。

コペルニクス、ケプラー、ガリレオらの研究により、
地動説が唱道されると、地球を中心とした天動説的世界観を説く
聖書や教会の権威は、いよいよ揺らぎだしたのです。

こうして、新しい合理的視点から人生や世界をとらえ直したい
という願望が広がった時、フランスに ルネ・デカルト が登場します。

デカルトの代表的著作 『方法序説』 から、
彼の哲学を見てみましょう。

真理探究のために、デカルトはまず、
ほんのわずかでも疑いうるものはすべて否定したのです。

感覚、推理、一切の思想が次々に批判されましたが、
あらゆるものを疑っても疑いえないものがある。

それは、現に疑っている 自己の存在

こうして 「我思う、ゆえに我あり」 という
根本的真理に到達したというのです。

有名なこの言葉は、西洋近代思想の核心をズバリ表した
「人間理性の独立宣言」 とされています。

何と大げさな! と思うかもしれませんが、
それほど中世のキリスト教支配は絶大だったのです。

なにしろ、デカルト以前のヨーロッパ思想は、 一切が神中心であり、
神が人間を造ったから 「我あり」  だったのです。

だからデカルトが、神の支配を脱した人間の理性、
考える自我を出発点としたことは、
哲学史上の革命 と言ってもいいと思いますし、
実際にそう評価されています。

しかし、問題はこのあとです。
デカルトは、 神の存在証明 を試みるのです。

証明できたのか!?
どのように証明したのか?

また長くなってしまいましたので、
ここらで区切ります。


ところで、キリスト教は、神から見たら何らかの意義があるのではなく、
人間にとって都合がいい教えだと言わざるをえません。

いい面、悪い面ということではなく、
その教えは真実か否か、を見ていかねばならないと思います。
なにごとも、まずその教えをよく知ることが大切ですよね。

デカルト 神の存在証明

こんばんは。

ひと呼吸つきましたので、続けます。

哲学史上の革命児、デカルトの 「神の存在証明」 について。

デカルトいわく、

「一切のものは必ず原因を持つ。
 無からは何も生じない。

 しかるに、私は神という観念を持っている。
 ここで、完全なもの (神の観念) が、
 不完全なもの (私の存在) の結果であるというのは、
 無からあるものが生ずる、というのに劣らず矛盾である。

 だから神の観念は、私以外の、完全でかつ私が考えうる
 あらゆる完全性を持つ存在者、すなわち神によって
 与えられたものでなければならない。

 よって、神は存在する」



というのです。


???


要するに 「我あるがゆえに神あり」 ということでしょう。

ところで、ここでもう一度基本原理
 「我思う、ゆえに我あり」
に立ち返ってみましょう。

よく考えてみると、
「我思う」 と 「我あり」 が 「ゆえに」 で結ばれるためには、
「思うものは必ず存在する」 という前提が必要です。

三段論法と対比すると、

A. 女ならば人間である。
B. 小野小町は女である。
ゆえに
C. 小野小町は人間である。

A. と B. が正しければ、 C. は成り立つ。

デカルトの原理でいえば、

A. 思うものは存在する。
B. 我思う
ゆえに
C. 我は存在する

とならなければなりません。

果たして 「思うもの」 は、必ず存在するのでしょうか?


この点、デカルトは同じ 『方法序説』 の中で、こう述べています。

「『私は考える、ゆえに私はある』 という命題において、
 私が真理を言明していることを私に確信させるものは、
 考えるためには存在せねばならぬということを
 きわめて明晰に私が観るということより以外に、まったく何もない」



感覚的には、確かにそうでしょう。
しかし、本当に 「明晰に私が理解する」 ものは、
間違いないのでしょうか。

それについて、別の箇所でさらに言っています。

「われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものは
 すべて真である、ということすらも、
 神があり現存するということ、
 神が完全な存在者であること、
 および、われわれのうちにあるすべては
 神に由来しているということ、
 のゆえにのみ、確実なのである」



めんどくさい言い回しですが、
「我思う、ゆえに我あり」 が真理であるためには、
神の存在が不可欠である、ということになります。


 “神は存在する。
  我々は神によって造られた。

  だから、我々の認識能力はゆがんではいない。
  なぜなら神は完全であり、決して我々を裏切らないからだ。

  よって我々に、明晰判明に認識されるものはすべて
  真理と信じていい。
  考えるためには存在しなければならない
  というのは、極めて当たり前。

  だから 「我思う、ゆえに我あり」 といえる”



これがデカルトの主張です。
つまりは、 「神あるがゆえに我あり」

神の存在証明には 「我あり」 をいい、
ひるがえって我の存在証明には 「神あり」 をいう。

有名なこの 「デカルトの循環」 は、
「はじめに神ありき」 の大前提なくしては、
実は何一つ証明できないことを、告白しているだけでしょう。

デカルトにして、しかり。。。

これが西洋近代思想の出発点なのですから、
いかに西洋哲学がキリスト教と深い関係にあるか。
よく分ると思います。


次は、デカルトの 神の存在を前提とした 「物心二元論」 について。
長くなったので、とりあえず、ここで区切ります。

No title

わかりやすい説明ありがとうございます。

デカルト 物心二元論

こんばんは。

やりかけたことです。
私にできること、最後までやりたいと思います。
書くのも大変ですが、読むのもきっと大変だと思います。
究極の問いに向けて、一緒にがんばりましょう。


デカルトは、神の存在を前提にして、
精神 (理性) と物質のみが、間違いなく存在する、
としました。


物心二元論
 です。

デカルトによれば、精神と物質は全く無関係だとしています。

物質には精神はない。
だから考えない。

考えるのは、精神を持つ人間のみ。
動物は自動的に動く機械にすぎないから、
神から理性を与えられた人間は、動物とは隔絶した存在なのだ、
という。

ここが、人間も動物も同根の生命とする仏教とは、
根本的に違います。


デカルトの基本的発想は、
神の姿に似せて造られたのは人間のみであり、
自然や動物は、人間より一段低い被造物である
とするキリスト教の人間観、世界観から生まれたものでしょう。

天地創造を解説して、 教父アウグスティヌスが言いました。

 「神の摂理は、はじめに、すべての被造物を自分自身に委ねさせた。
  次いで、身体的被造物を精神的被造物に、
  非理性的被造物を理性的被造物に、
  現世のものを天上界のものに、
  女性を男性に、
  価値の少ないものをもっと価値のあるものに・・・・・・
  委ねさせた」

こうしたキリスト教の考えを、
デカルトの二元論は一層強化しています。

つまり、唯一の精神的被造物、理性的被造物である人間は、
人間以外のあらゆる物 (自然や動植物) に君臨する
支配者であることが徹底されたのです。

また、理性を持つことが人間の証明となり、
「完全なる神によって与えられた」
理性は、絶対視されたのです。

これによって、人間は実に傲慢になるのです。


中世には、唯一全能の神の前に、
人間は無力な存在でしたが、
それまで理性を抑えつけてきた神が揺らいだ途端、
今度は理性そのものが神の座に座ってしまったのです。

理性こそ万能という理性至上主義が生み出され、
それはさらに人間のエゴイズムをもむき出しにしていく。

たとえば、科学。

デカルトによって精神から分断された物質を研究することで、
自然の法則を発見し、人間に都合よく自然を管理、支配し、
利用するようになりました。

自然科学の発達です。

キリスト教者にとって、自然界の法則もまた神の被造物だから、
それらを探求することが神の意思を知ることでもあったのです。

万有引力のニュートンがその一例です。
そして、進化論のダーウィンもそう。
二人とも、神の存在証明を試みたのですが、
結果的には、自身の研究によって、
キリスト教を否定し、全能の神を葬り去ってしまう
ことになってしまったのですが。。。

自然科学者が熱心なクリスチャンであるのは、
だから何の不思議でもない。

ところが、結果的に科学がキリスト教を否定しても、
理性至上主義は独り歩きし、科学万能の時代を経て
今日に至っているわけです。

現在、環境破壊が国際問題化しています。
ようやく、環境保護が声高に叫ばれていますが、
もとをたどれば自然を人間の思うままにしようとする傲慢思想が、
今、反省を突きつけられているのでしょう。


デカルトは、神の存在を前提にして、
精神 (理性) と物質のみが、間違いなく存在する、
としました。


物心二元論です。

デカルトによれば、精神と物質は、全く無関係である。

物質には精神はない。
だから考えない。

考えるのは、精神を持つ人間のみ。
動物は自動的に動く機械にすぎないから、
神から理性を与えられた人間は、動物とは隔絶した存在なのだ、
という。


ここが、人間も動物も同根の生命とする仏教とは、
根本的に違います。


デカルトの基本的発想は、
神の姿に似せて造られたのは人間のみであり、
自然や動物は、人間より一段低い被造物である
とするキリスト教の人間観、世界観から生まれものでしょう。

かつて、天地創造を解説して、
教父アウグスティヌスは言った。

 「神の摂理は、はじめに、すべての被造物を自分自身に委ねさせた。
  次いで、身体的被造物を精神的被造物に、
  非理性的被造物を理性的被造物に、
  現世のものを天上界のものに、
  女性を男性に、
  価値の少ないものをもっと価値のあるものに・・・・・・
  委ねさせた」

こうしたキリスト教の考えを、
デカルトの二元論は一層強化しています。

つまり、唯一の精神的被造物、理性的被造物である人間は、
人間以外のあらゆる物 (自然や動植物) に君臨する
支配者であることが徹底されたのです。

また、理性を持つことが人間の証明となり、
「完全なる神によって与えられた」
理性は、絶対視されたのです。

これによって、人間は実に傲慢になる。

中世には、唯一全能の神の前に、
人間は無力な存在であったが、
それまで理性を抑えつけてきた神が揺らいだ途端、
今度は理性そのものが神の座に座ってしまった。

理性こそ万能という理性至上主義が生み出され、
それはさらに人間のエゴイズムをもむき出しにしていくのです。

たとえば、科学。

デカルトによって精神から分断された物質を研究することで、
自然の法則を発見し、人間に都合よく自然を管理、支配し、
利用するようになった。

自然科学の発達です。

キリスト教者にとって、自然界の法則もまた神の被造物だから、
それらを探求することが神の意思を知ることでもあったのです。

自然科学者が熱心なクリスチャンであるのは、
だから何の不思議でもない。

ところが、結果的に科学がキリスト教を否定しても、
理性至上主義は独り歩きし、科学万能の時代を経て
今日に至っているわけです。


現在、環境破壊が国際問題化しています。
ようやく、環境保護が声高に叫ばれていますが、
もとをたどれば自然を人間の思うままにしようとする傲慢思想が、
今、反省を突きつけられているのでしょう。

そもそも、人間の理想はそんなに尊厳なのでしょうか。

理性によってウソをつく。
戦争も起こす。
苦しみ悩んで自殺もする。

一方で、己の欲望を満たすためには、
人はどれだけでも残虐になる。

これで万物の霊長といえるのでしょうか。。。

人間中心の近代ヒューマニズムというものに
危うさを感ずるのは、ここです。

「神から与えられた」 理性で明晰に判断したことは正しい
という、とてつもない慢心に陥ってしまうからです。

だから、西洋哲学には、深い罪悪感が欠如している。


しかし、現実はどうでしょう。

「人間の邪悪な心を変えるより、
 プルトニウムの性質を変えるほうがやさしい」


とアインシュタインも嘆くように、
人間の醜い欲望が日々現出しているではありませんか。

日々起きている凶悪犯罪や事件を見聞きしながらも、
私たちはつい、自分は無関係のことのように思いがちです。

ですが、 「えっ、あんないい人が」 という驚きと嘆息が、
何度、互いの口から出たことか。

ふだん隣にいる、いかにも善良そうな人が、
いや、他人事ではない、
毎日いかにも善良そうにふるまっているこの私自身が、
ある日突然、殺人鬼になりうるのが、
人の世というものではないでしょうか。

心理学者・ユングはこう述べています。

 「人はふつう、意識が自分自身について知っているところが、
  すなわち人間だと考えているから、
  自分が無垢な存在だと思い、そう思うことによって
  悪さに加えて愚かしさまで身につけることになる」


 「たとえ法律的に見て、その場に居合わさず、
  手を下さなかったとしても、人間であるという一事によって、
  われわれもまた潜在的な犯罪者なのだ。
  たまたまその地獄の渦巻きに、ともにひきずりこまれる機会に、
  めぐり合わせなかっただけにすぎない」



人間の実相をお釈迦さまは、こう説かれています。


 心常念悪  心常に悪を念じ
 口常言悪  口常に悪を言い
 身常行悪  身常に悪を行い
 曽無一善  曽て一善無し

 (大無量寿経)



人間の心には嵐がある。
吹き荒れる悪の衝動を、私たちはどうすることもできないでいる。
しかも、そんな心の実態に気づくことさえもない。

 「さるべき業縁のもよおせば、
  いかなる振る舞いもすべし」
 (歎異抄)


縁さえくれば、どんな恐ろしいことでもする、
との親鸞聖人のお言葉です。

こうした人間の暗部について、
「語るな、ただ見て過ぎろ」
というダンテの忠告に従うこともできます。

ですが、人間の奥底を余すところなく照らし出すことなくして、
真の自己の存在を知り、真の幸福になることは
絶対にありえないでしょう。

それは、自分へのごまかし、
人間に対する不誠実になるから。

ごまかしではない、ごまかしようのない、
本当の私の存在に向かって、一歩ずつ迫っていきましょう。

すみません

メモ帳に書いて整理しながらコピペしてたら、
同じ内容を繰り返しコピペしちゃって、
おかしなふうになってしまいました。。。(><)

読みづらくて、すみません。
すでに私には編集できませんので、お許し下さい。

No title

読むのは大変じゃないです
むしろとても感謝してます
無理しないでいいですよ

デカルトの生命観

こんばんは。

今日も少しだけでも前進しましょう。


デカルト哲学について一緒に学んできましたが、
彼の哲学思想には、生命観が欠けている、
と言わざるをえません。


たとえば、一匹のウサギの心臓にナイフを刺す。
ウサギは理性を持たない自動機械であるから、
生命を奪われ動かなくなっても、それはむしろ、
より安定した物質になっただけ、ということになります。


つまり、殺生は何ら罪ではなくなってしまうのです。


デカルト的発想から生まれた科学技術の進歩が
大量殺生を繰り返し、多くの動植物を絶滅させつつあるのも、
当然の帰結ではないでしょうか。


しかも、同様のことが人間にもあてはまる。

現代物理学の主張

こんばんは。
今日も究極の問いへ一歩でも前進したいと思います。


デカルト的世界観と、それを支えるニュートン力学は、
すでに20世紀初め、相対性理論と量子論という
物理学上の二つの発展により、過去のものとなりました。

ニュートン力学では 「絶対空間」 「絶対時間」 が想定され、
時間と空間は無関係としていましたが、
アインシュタインの特殊相対性理論によれば、

「動いているものは、時間が遅れる」


すなわち、時間と空間は切然と区別できないことが明らかになりました。


これによって、 「時空」 という概念が確立したのですが、
さらに一般相対性理論では、
「物質が周囲の時空を曲げる」

ことを見抜いた。

つまり、それまで 「中身」 と 「入れ物」 として
別々に扱われていた 「物質」 と 「時間、空間」 が
統一されたのです。

ちなみに仏教では 「有時」 の思想として、
時間と空間の関係性はすでに説かれています。

20世紀を代表する哲学者ハイデッガーの主著 『存在と時間』 は、
『有と時』 とも訳されています。

道元の 『正法眼蔵』 で最も有名な 「有時の巻」 には、
ハイデッガーが言いたかったであろう存在論、時間論が、
とうの昔に仏説で語られています。

まさに驚くべきことではないでしょうか。


また、ボーアやハイゼンベルクらの量子論によれば、
物質の最小単位とされる素粒子は不変の実体ではなく、
互いに影響を及ぼし合ったり、生成消滅したりする。
これによって、デカルトの考えた
固定不変な実体というものも、否定されました。


西洋哲学でいう 「実体」 を、
仏教では 「我」 といいますが、
こうした常一主宰 (常に同じ一つのもので、ほかとは無関係に独立して存在している) の我は
存在しないというのが、仏教の 「諸法無我」 です。

これは、前に少し触れましたね。

さらに、量子論には、人間の観測の問題があります。

ニュートン力学のレベルの科学からは想像を絶することであるだけに、
多くの科学者は衝撃を受け、世界観が一変しました。

量子論によれば、素粒子は粒子と波の両方の性質を持つ。
どういうことかというと、誰も見ていない時は、
素粒子は 「どこか一ヵ所にある」 のではなく、
「いろいろな所にある」 という状態になっている。

ところが、人間が観測すると、
どこか一ヵ所に粒子として存在する、
ということ。

おかしな話ですが、ふだんはスープのような状態なのに、
人間が見ると豆になる、といったたとえで、これは表現されている。

もう一つ、無理を承知のたとえですが、
「だるまさんが転んだ」 という遊びを思い出してみましょう。

鬼が向こうを向いている時は、
誰がどこにいるかわかりませんが (ひょっとして誰もいないかもしれない)、
パッと振り向くと同時に、ぴたりと動きが止まって、分かるようなもの、
とでも言えば、この関係は理解しやすいでしょうか。

要するに、物質を構成する素粒子というのは、
粒子として認識するということです。

物質は、人間の意識を通してのみ、存在が認識されている、

とでもいえばいいでしょうか。


では、世界はなぜ今のように存在しているのか。



客観的実体として存在しているのではなく、
人間が見る (意識が関与する) ことによって、
今、見ているような世界が存在している、
ということになるでしょう。


この世界に実体がないって???
そんなバカな! と思います。


確かに私たちの生活実体とは懸け離れています。
ですが、何かつかみどころないこの世界、
あるいは過ぎ去った人生の全体が
まるで夢の断片のようであることに深く思いを巡らす時、
妙に納得させられるものがないでしょうか。

いずれにしても、わたしたちの生きている世界は、
(時空や物質すべて含めて)
相対的で実体のない、茫漠たる夢幻のごときもの、
というのが現代物理学の主張するところですね。

最先端理論 ボーム

こんばんは。


かなり 「なぜ世界は存在するのか」 の答えに迫ってきた、
ような気がします。
一体、世界はどういうふうになっているのか。

ご存じかもしれませんが、
興味深い、最先端理論の一つを紹介します。


アインシュタインの弟子であり、
相対論と量子論の両方の分野で活躍した
理論物理学者 デヴィド・ボーム は、
1970年代に 「ホログラフィック宇宙論」 の仮説を発表しました。

常識からは、にわかに信じられない内容ですが、
ボーム以降も、この仮説を裏づける研究 (超ひも理論など)
が次々と発表され、支持する科学者が増えているようです。

ボームは、その著書 『全体性と内蔵秩序』 の中で、
こう述べています。

「われわれはデカルト的秩序が相対論でも量子論でも、
 深刻な矛盾と混乱に逢着しつつあることを見出す。
 なぜならこの二つの理論からは、
 宇宙が分断されぬ全体であることこそ現実の事態であり、
 独立した諸部分への分析は
 実態にそぐわないことが結論されるからである」


そして彼は、 「分断な宇宙に相応しい新たな秩序概念」 として、
宇宙は二重構造になっていて、私たちが通常、宇宙と呼んでいる
 「目に見える宇宙」 の背後に、
もう一つの 「目に見えない宇宙」 が存在する、
という世界観を展開しています。

ボームは、 「目に見える宇宙」 を
「顕前秩序 (エクスプリケイト・オーダー)」

または 「包み込まれた秩序」 と呼び、
もう一つの 「目に見えない宇宙」 のことを
「内蔵秩序 (インプリケート・オーダー)」
 と呼んでいます。

私たちが普段感じている時間や空間、物質というものは
「顕前秩序」 に現れたものであり、この 「顕前秩序」 は、
「あらゆる内蔵秩序の総体のうちに含まれる、
 特殊かつ際立った形態なのである」
というのです。

たとえていえば、日ごろ私たちが現実と思っている世界は、
ちょうどホログラムによって映し出された射影のようなものだ
というのです。

ホログラムとは、一枚の写真から立体像を再現する技術で、
身近なところではクレジットカードの表面や、
映画などにもしばしば登場します。

その特徴は、ホログラム (記録したフィルム) のどの部分にも、
全体の画像に関する情報が含まれている、ということです。
同様に、この世のあらゆる存在、たとえそれが雨だれの一滴、
風に舞うひとひらの花びらであっても、
そこには、宇宙全体 (時間も含む) が包み込まれているのだ、
というのがボームの理論なのです。


一見、とっぴな主張のようですが、
すべての存在は大宇宙のさまざまな因縁が和合した結果であり、
その一つの存在が宇宙全体にもまた影響を与えている、
とする仏教の世界観を知る者にとっては、
決して奇異なものではありません。


ボーム自身も、 「内蔵秩序」 と 仏教の 「空」 の関係を、
日本人とのインタビューでこう言及しています。

 「仏教における空の問題というのは、
  すべてのものの究極の本質は空である、
  というものでした。(中略)
  事物は、それ自身の本質から生じるのではなく、
  すべてのものは全体から生じ、全体へと還帰するわけで、
  これは暗在系 (内蔵秩序) の考え方に近いのです」


ボームは、さらに物質と意識の関係についても、
踏み込んで論じています。
彼の言葉を聞いてみましょう。


 「内蔵秩序が意識にも物質 (生を持つにせよ持たぬにせよ) にも適用でき、
  そこから両者の一般的な関係が理解され、
  ひいては両者の共通根拠について (中略)
  何らかの見解に到達できるのではないか」


 「内蔵秩序にあっては、心は物質一般を包み込んでおり、
  したがって心はその特殊な場合としての身体を包み込んでいる
  と言わねばならぬと同時に、身体は心を包み込んでいるばかりでなく、
  ある意味で全物質界を包み込んでいると言わねばならぬ」



「物 (身体)」 と 「心 (精神)」 は分割できないことを、
仏教では 「物心一如」 「色心不二」 といいますが、
それに近い考えだといえましょう。


 「より深い内奥にあって両者を包括する実在は心でも身体でもない。
  それはむしろ心や身体よりも高次元の、
  本性上それらを超越した実在なのであり、
  そしてまたそれこそが両者をともに在らしめる共通の根拠なのである。
 (中略)
  この高次の根拠を支配しているのは内蔵秩序である」



 「宇宙とは何か、物質一般とは何か、
  生命とは何か、意識とは何かという問題が
  一つの光のもとに招集された。
  これらはすべてある共通の根拠の射影と考えられた。
  この共通の根拠は (中略)、存在するあらゆるものの根拠と呼べるだろう。
  それを観た者もいない。
  だがそれはあるしかたで、われわれの意識中に包み込まれているのである」



明らかにボームは、物質と意識を越え、
そしてそれらの存在をあらしめる究極の何ものかを示唆しています。


そして彼は、宇宙は瞬間瞬間にダイナミックに変化する
流動運動であるから、静的な 「ホログラム」 というより、
動的な 「ホロムーヴメント」 (全体運動) という表現がふさわしい、
とも言っています。
これも重要な指摘でしょう。


これが、相対論、量子論に精通した理論物理学者の、
真摯にして厳密な思考、研究の結論なのです。

わからないようで、わかるような。。。
なんか、すごいですよね。

脳の研究に迫る

こんばんは。
しばらく間をあけてしまいました。

今日も、究極の問いの答えを求めて、続けます。


スタンフォード大学の神経生理研究所所長などを務めた
大脳生理学者 カール・プリブラム は、
ボームとは全く別の、脳の研究という立場から、
ほぼ同様のことを述べています。

それまで、脳はコンピュータと同様に、
ある機能に特化した部分部分がつながっている、
という仮説によって研究されてきました。

ですが、プリブラムは、
記憶が一般に大脳全体にわたって記録されていることを提唱し、
それを裏づける証拠を示しました。

彼によれば、対象や質に関する情報は、
大脳の特定の細胞や限定された部分に貯蔵されるのではなく、
すべての情報がホログラムのように
大脳全体にわたって包み込まれている、
というのです。

さらに発展させて、
宇宙全体がホログラム的な構造になっているのではないか、
と考えたプリグラムは
「宇宙はたぶん一個のホログラムなのだ」

という有名な言葉を発しています。

彼は、ボームのいう内蔵秩序に当たるものを、
潜在的次元 (ポテンシャル・オーダー) と名づけていますが、
それについて、こう述べています。

「潜在的次元は、ある意味で、それへの限界がなく、
 境界もありません。
 すべてのものが、そこに包みこまれています。
 そこには空間の境界はありません。
 時間の境界もありません (中略)。
 この包み込まれた次元、ボームはそれを 
 <暗在系> (内蔵秩序のこと) とよんだのですが、
 この隠れて巻きこまれた次元では、そういう風なのです。
 その次元では、われわれを宇宙の一部分に組み込んでいる
 ある種の深い関係があります (中略)。
 脳も宇宙の変化した一部分なのだということなのです (中略)。
 つまり、脳は宇宙の一つの側面なのです」


ホログラムというのは、一つの比喩で、
鍵を手に入れたようなものだというのです。
鍵でドアを開ければ、部屋の中を見ることができる。
それによって全体の秩序が開かれてくる。

それは、私たちが現実に認識している離散的な
 (部分部分に分割できる) 秩序の背後にある、
潜在的な、分布された (分割できない) 秩序だ、
というのです。

 「 (従来の科学は) 宗教つまり人類の
  精神的諸側面との間に分裂を生み出しました (中略)。
  21世紀には、われわれは、精神と科学を
  一つにすることができるでしょうし、
  このことは、あらゆる面で、われわれの生き方に
  深刻なインパクトをもつようになるでしょう」


ともプリブラムは言っています。

ボームとプリブラム、
この二人の科学理論を研究した マイケル・タルボット は、
著書 『投影された宇宙』 にこう書いています。

 「プリブラムとボームの理論を合わせて考えてみると、
  そこには深遠な新しい世界観が見えてくる。
  私たちの脳は、つきつめてしまえば他の次元、
  『時間と空間を越えた深いレベルに存在する秩序』
  から投影される波動を解釈し、客観的現実なるものを
  数学的に構築しているのである。
  すなわち、脳はホログラフィックな宇宙に包み込まれた
  ひとつのホログラムなのだ」


宇宙は、孤立した部分部分の集合ではない。
部分と全体とは、関連し合った一つのものなのだ、と。


 「芥子粒の中に、三千大千世界 (大宇宙) を入れて、
  広からず、狭からず」


という仏教の言葉は、
このことを示唆しているのではないでしょうか。


人は、一輪のバラにも、全宇宙を見る。
そんな気がします。


でも、謎はここからです。
すなわち、見ているものは果たして何ものなのか
ということです。
この世界が幻影だとするなら、その幻影を生み出しているものは、
一体何なのでしょうか。

デカルトの物心二元論から、
話が広範囲に展開してしまいました。
ここで、要点をまとめてみましょう。

・デカルトが 「心」 と 「物」 を分断したことで、
 近代科学が発展し、今日の物質文明が築かれた。

・だが、 「心」 と 「物」 は、
 デカルトの主張のように分けられるものではなく、
 不可分である。
 (ここでいう 「物」 とは、我々を取り巻くすべてのもの。
 広くいえば、世界であり宇宙のこと)

・私たちが日ごろ感じている (見聞きしている) 世界は
 実体のない世界。

・この世界観は、哲学におけるハイデッガーの
 「世界内存在」 と共通する考えであり、
 仏教の世界観にも通じるものである。



現代科学は、急速に仏説に近づいている、
といえるでしょう。
私がそう思うのではありません。
現代科学を追求している近現代物理学者たちが、
そう感嘆しているのです。


ですが、ここで大きな問題が浮かび上がってきます。

夢幻のごとき世界。。。
ならば、この世界で生きている私とは、何ものなのか。
この私が生きている意味は何なのか。
世界はなぜに存在しているのだろうか。。。


人生は深い謎に包まれています。
シェイクスピアの、こんな一節を思い出します。

 「この地上に在る一切のものは、
  結局は溶け去って、
  いま消え失せた幻影と同様に、
  あとには一片の浮雲も残しはしない。
  われわれ人間は夢と同じもので織りなされている。
  はかない一生の仕上げをするのは眠りなのだ」


この世のすべてが夢ならば、なぜに私は生きている。
死という永遠の眠りに就くまでの、ただ一時の戯れなのか。


なぜに世界は存在しているのか。


その不可解さを、ウィトゲンシュタインはこう述べています。

 「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、
  世界があるということなのである」



哲学、科学を追求していくと、
やはり 「究極の問い」 にたどりつきます。

ただ 「問い」 にたどり着いただけ。
たどり着いたというより、戻っただけか。。。

答えはどこに。。。
まだまだ先か。。。それとも永久に。。。

No title

ありがとうございます。
毎回、ブログとコメント両方、読んでます。
少し間があいたので、仕事か家庭のことで大変なんだろうなあと心配してました。
無理せず、ゆっくりでいいですよ。本当にいつも感謝してます。

生命の実態

こんばんは。

お察しの通り、忙しくて、間があいてしまいました。。。

怠惰な私。
続けるということは、本当に難しいことだなぁ、
とつくづく思い知らされます。

明日、明後日は、仕事休みもらいました。
休みでも関係なく24時間緊急call standby態勢ですけど。。。(><)

今日は仏教から生命の実体にせまりたいと思います。
一緒に、学びましょう♪


デカルトの出発点は、 「我思う、ゆえに我あり」 でした。

彼の言う 「思う」 は、意識でしょう。
ですが、思っても思わなくても、意識のはるか底に、
過去・現在・未来の三世を貫く不滅の生命として 「ある」 のは
業の集積体、仏教で 「阿頼耶識」 (アラヤシキ) といわれる心です。

もちろんそれは、デカルトの言うような、
実体としての 「ある」 ではありません。

「恒に転ずること暴流の如し」

の一句をもって、インドの高僧・天親菩薩が喝破されたように、
激しく流れ落ちる滝は、連続した水滴が、
瞬時もほとばしりやまず、常に変化の中にある。

絶えず滅せず流れながら、その実体はない。
私たちの生命とは、まさにそのようなものだ、
と仏教では説かれています。

アラヤとは、「蔵」 という意味です。

私たちの 業 (行為) が無数の種子 (因) となって、
阿頼耶識にはおさまっている、と説かれています。

ふだん私たちが心だと思っているものの奥底には、
蔵のような別の心がある、ということです。

この阿頼耶識におさまっている業の種子が、
さまざまな縁に触れて結びつくと、
目に見える、あるいは感じられる結果となって現れる。

つまり、この阿頼耶識こそ私の本体。

いわば私そのものであり、私が今生きている世界を生み出し、
すべての存在を存在たらしめている究極のものなのだ、
と教えられるのが仏教です。



この生命に、誰が気づいているでしょうか。

私たちの思考によって把握できるものでは到底ありません。
ですが、この生命の実態が明らかにならない限り、
いかなる哲学も観念の遊戯になってしまうでしょう。

釈迦の手のひらの上の孫悟空のように。。。

No title

こんばんは。

人生の意味。
難しいですが、必ず答えは見つかるはずです。
今日も究極の問いの答えを求めて。


ところで、人間って何でしょう。

学問的には、霊長目ヒト科に属する哺乳類、
ホモ・サピエンス(知恵ある人)。

古来、人間の定義は、さまざまになされています。

「人間は政治的な動物である」 (アリストテレス)
「人間は半ば社会的、半ば孤独な存在だ」 (ラッセル)
「人間はどんなことにでも慣れられる存在だ」 (ドストエフスキー)

デカルトは 「心を持った機械」 といいました。
ホイジンガは 「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人) と名づけています。
その他、「道具を使う動物」 「パンツをはいたサル」 「裸のサル」 などなど。

ですが、人間を表現したもので最もよく知られているのは、
パスカル の言葉でしょう。

「人間はひとくきの葦にすぎない。
 自然のなかで最も弱いものである。
 だが、それは考える葦である」

『パンセ』 の中の、有名な言葉ですが、
パスカルは物事を実に徹底的に考え抜いた人です。

「われわれの尊厳のすべては、
 考えることのなかにある」

「考えが人間の偉大さをつくる」

まるで 「考えざるもの人にあらず」 といったふうですが、
なにしろ、子供のころ、頭痛がすると数学の難問を解いて治した
というのですから、頭のできが並ではありませんよね。

しかし、一方でパスカルは、熱心なカトリック教徒でした。

果たして彼は、人生を、神を、キリスト教を、どう考えたのでしょうか。


「すべての人は、幸福になることをさがし求めている。
 それには例外がない。
 どんな異なった方法を用いようと、
 みな、この目的に向かっている。

 ある人たちが戦争に行き、
 他の人たちが行かないのは、
 この同じ願いからである。
 この願いは両者に共通であり、
 ただ異なった見方がそれに伴っているのである。

 意志というものは、この目的に向かってでなければ、
 どんな小さな歩みでも決してしないのである。
 これこそすべての人間のすべての行動の動機である。
 首を吊ろうとする人たちまで含めて」

『パンセ』 の明快な一節です。

人生の目的は幸福である、としたうえで、
パスカルは幸福論を展開しています。


まず、人生というものがいかにむなしいかを訴えています。

「人間というものは、倦怠の理由が何もない時でさえ、
 自分の気質の本来の状態によって倦怠に陥ってしまうほど、
 不幸な者である。

 しかも、倦怠に陥るべき無数の本質的原因に満ちているのに、
 玉突きとか彼の打つ玉とかいったつまらないものでも、
 十分気を紛らすことのできるほどむなしいものである」

「この世のむなしさというこんなに明白なことが
 あまりにも少ししか知られていないので、
 権勢を求めるのはばかげていると言うのが、
 奇妙で意外なことに聞こえるほどである。
 これは驚いたことだ」

恋愛にも手厳しい。

「人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、
 恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるがいい。

 原因は、『私にはわからない何か』 であり、
 その結果は恐るべきものである (中略)。

 クレオパトラの鼻。
 それがもっと短かったなら、
 大地の全表面は変わっていただろう」


芸術にも。

「絵画とは、なんとむなしいものだろう。
 原物には感心しないのに、
 それに似ているといって感心されるとは」

なぜに人生はこれほどむなしいのか。
そして、むなしさをごまかす 「気晴らし」 を必要とするのか。
それについてパスカルは、こう言っています。

「私は、まさに有効な理由が一つあることを発見した。
 それは、弱く、死すべく、そして、
 われわれがもっと突っ込んで考えるときには、
 われわれを慰めてくれるものは何もないほどに惨めな、
 われわれの状態の、本来の不幸のうちに存するものである」

「人間は幸福であろうと願い、
 幸福であることしか願わず、
 またそう願わずにはいられない。
 だが、それにはどうやったらいいのだろう。
 それをうまくやるには、自分が死なないようにならなければならない。
 しかしそれはできないので、そういうことを考えないことにした」

「むなしさの原因は、死にある」
とする、この指摘はさすがです。

そして人は、死の不安を直視しなくていいように、
気晴らしを求めるというのです。


一旦ここで区切りますね。
いつも長くてすみません。。。

パスカル 死の解決に挑む

前のコメントから続けますね。


パスカルは 「死」 を最大のテーマとしました。

「幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。
 みな死刑を宣告されている。
 そのなかの何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。

 残った者は、自分たちの運命も
 その仲間たちと同じであることを悟り、
 悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、
 自分の番がくるのを待っている。
 これが人間の状態を描いた図なのである」

人間は、生まれながらの死刑囚であり、
その執行はいつ来るか分からない。
こんな人間が、幸福になるにはどうすればいいのか。

「この世に真の堅固な満足はなく、
 われわれのあらゆる楽しみはむなしいものにすぎず、
 われわれの不幸は無限であり、
 そしてついに、われわれを一刻一刻脅かしている死が、
 わずかの歳月の後に、われわれを永遠に、
 あるいは無とされ、あるいは不幸となるという、
 恐ろしい必然のなかへ誤りなく置くのであるということは、
 そんなに気高い心を持たなくとも理解できるはずである。

 これ以上現実であり、これ以上恐ろしいことはない。
 したいほうだい強がりをするがいい。
 これがこの世で最も美しい生涯を待ちもうけている結末である。

 このことについて一つよく考えてもらいたい。
 そして、この世においては来世を望むこと以外に幸福はなく、
 人はそれに近づくにしたがってのみ幸福であり、
 そしてその永遠について完全に確信を持っている人々にとっては
 もはや何の不幸も存在しないのと同じに、
 それについて何の光も持っていない人々にとっては
 何の幸福も存在しないということが、
 はたして疑う余地のあることであるかどうかを言ってもらいたい」


人間が幸福になるためには、
来世での幸せが保証されなければならない、
とパスカルは言うのです。

実に鋭い、人生の洞察だと思います。
また、こうも言っています。

「われわれが、われわれと同じ仲間といっしょにいることで
 安んじているのは、おかしなことである。
 彼らは、われわれと同じに惨めであり、
 われわれと同じに無力なのである。

 彼らはわれわれを助けてはくれないだろう。
 人はひとりで死ぬのである。
 したがって、人はひとりであるかのようにして
 やっていかなければならないのである。

 それだったら、りっぱな家を建てたりなどするだろうか。
 ためらわずに真理を求めることだろう。
 そして、もしそれを拒むとしたら、
 真理の探究よりも、人々の評判のほうを
 重んじていることを示している」


「もし一週間の生涯なら、
 ささげるべきであるならば、
 百年でもささげるべきである」


「魂が死すべきものであるか、
 死なないものであるかを知るのは、
 全生涯にかかわることである」

 
デカルトが、初めから死を無視したのに対して、
パスカルは、死を真正面から見据え、解決を挑んだのです。


しかし、死はあまりにも大問題。
パスカルはやはり、神にすがらずにおれなくなります。

しかし、神は本当に存在するのか。

真剣に、彼は考えたのです。
ですが、幾ら首をひねっても分からない。

「神があるということは不可解であり、
 神がないということも不可解である。

 魂が身体とともにあるということも、
 われわれが魂を持たないということも。

 世界が創造されたということも、
 世界が創造されないということも、等々。

 原罪があるということも、
 原罪がないということも」


そこでパスカルは、この問題を
一つのギャンブルに置き換えたのです。

“神がいるか、いないか。
 それは分からない。
 理性では何も決定できない。

 ところで、もし神が存在するならば、
 これほど幸せなことはない。
 限りない幸福が約束されていることになる。

 存在しなければ、せいぜいこの世の幸福を味わうだけ。
 それは有限な幸福にすぎない。

 神が存在するか否かの確率は分からないが、
 我々が得られる幸福の量は、
 前者は無限であり、後者は有限である。

 となれば、誰でも前者、
 つまり 「神が存在する」 ほうにかけるであろう”


どこか、だまされたような気になります。
いかなパスカルも、こうした詭弁で
自分を納得させるしかなかったのでしょう。

こう告白しています。

「私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、
 まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、
 ずっと恐ろしいだろう」

神を信じておかないと、
「最後の審判」 で何をされるか分からないからなぁ、
というわけか。。。


結局パスカルは、理性と信仰とは
完全に別のものであると割り切ってしまいます。

「信仰の対象となるものは、
 理性の対象とはなりえない」

という父の教えを、終生守り通したのです。

しかしそれは、自ら 「考える葦」 たらんとしたパスカルが、
神に関しては自己矛盾していることになりはしないでしょうか。

39歳の夭折。
死因は消化器系のガンともいわれています。

「わが神、我を見捨てたもうや。
 願わくはわれ永久に彼より離れざらんことを」

が、最期の言葉でした。

パスカルは「死」をことさらに不安・恐怖の対象としていたようですね。若いころから病弱で常に死の恐怖におびえていたのかなぁ・・・

しかし、今の飽食・メタボ・認知症・介護疲れなどの現代日本では「死」を怖がる人よりも、人に迷惑をかけないでぽっくり死んでしまいたいと思う人が多くなっているような気がします。。。

『死』よりも『何で生きるのか?』が問われている時代かなぁと思います・・・

ヘーゲル哲学とマルクス主義

生と死は、全く逆のようですが、密接不離な関係。
おっしゃる通りなので、よくよく考えていきたいと思います。

カント。18世紀ドイツの哲学者ですが、
彼は神の存在を理性で立証することは不可能である、
と論じています。

同じドイツの ヘーゲル は、理性を絶対視しました。

「哲学が提供する唯一の思想は、
 理性が世界を支配するということ、
 したがって世界史においてもまた
 一切は理性的に行われて来たという、
 単純な理性の思想である」


ヘーゲル哲学では、全智全能の神に成り変わって、
神のごとく万能の理性 (絶対精神) が世界の支配者です。

理性至上主義も、ここに極まれり。

「理性的なものは現実的であり、
 そして現実的なものは理性的である」


とも言っています。

すべての現実は理性が生み出したものだと言いたいのでしょうが、
かく言う、ご本人の私生活はずいぶん非理性的です。。。

30半ばを過ぎたヘーゲルは、下宿先の夫人と密通し、
不義の子ルードヴィヒを生ませたのですが、
この母子を捨てて逃げ出したのです。

その後、41歳で、21も年下の貴族の令嬢と結婚するや、

「これで僕は地上の目的を達成した。
 この世では仕事といとしい妻とがあれば、
 それですべてかたづいたことになる」

と手紙を書くほど舞い上がっています。

ルードヴィヒを認知して引き取ったのが、悩みの種。
家出したルードヴィヒは、各地を転々としてオランダの軍隊に入り、
遠くバタビアで病死。
彼は知人への手紙に、父への恨み言を述べています。

「ヘーゲル氏は、私と手を切り、
 直接手紙をくれたことは一度もない」

理性の澄明を許さぬ己の欲望と、
人生の不条理を凝視してほしいものです。

さておき、ヘーゲルといえば、 弁証法 が有名です。
弁証法とは???

ヘーゲルは、すべてのものは、それ自体に矛盾をはらみ、
対立要素を持っていると考えた。
その矛盾や対立を統合し、より新しいものを創造してゆくことで、
あらゆる存在は発展していくという。

正(テーゼ)と、それに対立する反(アンチテーゼ)があり、
二つの矛盾を一層高い次元で調和統一して合(ジンテーゼ)することを
止揚(アウフヘーベン)といいます。

こうした発展の在り方を、へーベルは弁証法と呼びました。
この弁証法を史的唯物論に応用したのが、マルクスです。

マルクス主義は、元来はキリスト教思想に対するアンチテーゼとして生まれたものですから、
根本的思想が極めてキリスト教的なのも、その意味で当然です。

また弁証法を基礎に置いているから、
まず対立する二つのもの(正と反)を作らなければなりません。
プロレタリアートとブルジョアジー、
革命と反革命、
支配者と被支配者。。。

こうした二分法の組み合わせの上に、
マルクス主義理論は構築されています。

そのうえで、人々の鬱積した不平・不満に正義の仮面をかぶせ、
行動に駆り立て、社会変革のカタルシスに消散させたのです。
かつて青年たちが、まるで熱に浮かされたように
マルクス主義にのめり込んでいったのも、分かるような気がします。

若者は往々にして、正義感と社会に対する
不平不満のエネルギーに満ちているから。

いつもコメントありがとうございます

パスカルが神がいるならそれに従った生をすれば死後幸せだし、神がいなければ死後不幸せはないし、いずれにしろ神に従った人生を送った方が得だと決めたのも、ヘーゲルが神に従わず理性に沿って(理性と義理人情とは別物なので自分のためなら他人を犠牲にしてもいい)合理的に自分の人生が最大幸福になるように生きたのも、結局は同じようなものに、私には思えます。。。 
目的や意味がはっきりしていてそれに沿って行動する。しかし、その目的が達せられない場合、その行動生き方は意味をなさない。世の中は理不尽さで満たされている。
キリスト教を信仰していても、仏教を信仰していても、理性的合理的現実的に生きていても、それぞれに共通するのは、現世利益ということだと私は思えます。。。信じて、そして、それが自分を安心平穏にさせなければ、意味を持たないと。
(子供が算数を習ってピタゴラスの定理を習った時に、実際に証明して確かに正しいとわかるから、納得できるように)。。

たとえ、証明されても、苦々しいものだったら、そんなもの誰が納得するでしょうか・・・人は心地よいものしか受け入れないし、苦々しいことには自分の受け止め方を無理やり変えて心地よいものとして受け入れようとする・・・

もしも、この世が理不尽で不条理で人生が意味のないものだしたら、そして、生きていても苦しいことが多いような境遇の人がいたら、その苦々しい真実を
どう受け止めるか・・・


パスカルのように、死後の世界があるなら清く生きれば天国に行ける、死後人は無に帰するだけなら地獄に行かない、だから神を信じて清く生きた方が「得だ」と考えて神を信じるやり方。。。

逆に、めちゃくちゃな人生を送って死後無に帰するだけなら何も起こらないし、死後地獄に行くならそこで永遠の苦しみを味わおうと思える人がいるかもしれない。そういう人は、現世もすでに永遠の苦しみを味わっているような人だ。この世でもあの世でも同じように苦しんでいるだけで、どうってことはないと思える人だ。苦労が報われる?そんなことは期待してないし、そんなことどうでもいい。苦しもうと悲しかろうといいじゃないか、そんなこと・・・

幸せになってほしい

投げやりな感じが伝わってきます。
私がいろいろ書き過ぎてしまったでしょうか。
すみません。

地獄でいいわけありません。
苦しくていいはずありません。

苦しみを断ち切って、
幸せになって欲しいです。

絶対に幸せになって欲しいです。

トルストイ

こんばんは。

今日は、世界的文豪トルストイ。
彼は、その著 『懺悔』 の中で、こう述べています。

「私の疑問・・・50歳の時分に私を自殺させようとしたこの疑問・・・は、
 他愛のない小児から思慮分別の十分についた老人に至るまでの、
 すべての人の心の中に横たわっている、最も単純な疑問であった。
 これを欠いては生きて行くことが不可能になる疑問であった (中略)。
 その疑問というのはこうだった (中略)。

 『なぜに私は生きるのか、
  なぜに私は何物かを求めるのか、
  また何事かを行うのか?』


 さらにこの疑問はつぎのようにも言い現わせる。

 『私の行く手に待ち構えている
  あの避け難い死によって滅せられない悠久の意義が、
  私の生活にあるだろうか?』」


私たちが求めている究極の問い、そのものですね。
彼もまた同じ問いに行き着いたのです。

トルストイは、この解答を人間の知識の中に求めました。
そして彼は、あらゆる人間の知識は、
二つに分かれていることを発見したというのです。

一つは 実験科学
もう一つは 形而上学、いわゆる哲学です。

実験科学には、人生の目的に関する問題は、
初めからなかった。無視しているのです。

では、哲学はどうか。
彼は言っています。


「この学問ははっきりとつぎのような問題を提起する。

 『我とは何か? 全世界とは何か?
  また何のために私は存在するのか?
  この世界は存在するのか?』


 そして、この学問がこの世に生まれ出たその時から、
 その解答はいつも同一であった。

 観念よし、物体よし、霊魂よし、意志よし、
 哲学者はすべてこれらのものを、
 私およびあらゆる生物の中に存在する、生の本体と呼ぶ。
 哲学者の言うことはいつも同じで、これが本体である、
 我なるものがその本体である、というのである。

 けれども、何故にその本体なるものが存在するかを、
 彼は知らない。(中略)
 哲学はこれに答えないのみならず、
 自分でも同じ質問を発するだけである」



「哲学は、『我とは何か? 全世界とは何か?』 という疑問に対して、
 『すべてである、そして皆無である』 と答え得るばかりであり、
 また 『何故に?』 という疑問に対しては、
 『その点は知らない』 と答えることができるだけである。

 こういう次第で、いかに哲学の理論上の解答をひねくりまわしても、
 私はどうしても解答らしい解答を、
 何一つ受けることができなかった」



「すなわち、

 『私の人生の意義は何か?
  そんな意義なんてものは何もない。

  わが生活からいかなるものが生まれて来るか?
  何も生まれて来ない。

  何故に存在するところのすべてのものが存在するのか、
  またこの私は存在するのか?
  存在するから存在するのだ』

 こういう解答しか得られないことを、
 私はさとり得たのだった」



これが彼が人生をかけて、
徹底的に哲学を追求していってたどりついた答えです。
哲学の限界。
哲学では答えにたどりつけない、
ということが知らされるばかりです。

ありがとうご

いろいろ説明してくださってありがとうございます

私も20年以上ずっと考え続けてきました。
みんな、考え続け、一生勉強なんだと思います・・・
これからも頑張ってください

続・トルストイ

こんにちは。
私もずっと、ずーっと考えてきました。
今も考えています。真剣に。
そして、これからもずっと。

トルストイは、51歳の時 『懺悔』 を書き始めました。

世界的名声を得た 『戦争と平和』 や
『アンナ・カレーニナ』 を含む全著作を
「つまらない自分の作物」 と否定し、
著作とそれに対する莫大な金銭上の報酬、
拍手喝采の誘惑から目が覚めたと言っています。

すべての欲望を捨てると決意したトルストイに、
当然、妻ソフィアや家族は猛反対しました。
以後、30年も争いが続いたのです。

82歳で家出を決行、旅の途中に肺炎となり、
一寒村の駅舎官舎でトルストイは息絶えました。
彼の最期の言葉。

 「わしは真実を愛している。
  とても、真実を愛している」



いったい人間とは何か。
人は、何のために生きるのか。


トルストイの求めた答え。
そんなものは、我々の人生にはないのでしょうか。

この根本的疑問の前には、
体系的理論哲学は全くナンセンスです。
人間の心の深淵は、どんな体系でも埋められないのか。

人生を問うのは、学問でも理論でも体系でもありません。
私という存在が今ここに生きている。
これは一体どういうことなのだろうか?

問わずにおれぬ人間の、
身がちぎれるほどに切実な、
内なる問いなのです。



この 「人生の問い」 に、
実に誠実、深遠に取り組んだ人がいました。
デンマークの哲学者 セーレン・キルケゴール 。

「あらゆる地上的な利益を獲得することはできたが、
 自己自身はこれを喪失したとしたら?」

“たとえ全世界を征服し、獲得したとしても、
 自己自身を見失ったならば、何の意味もない”


これが、彼の思索の原点です。
実存哲学の創始者とされるキルケゴールの思想とはいかなるものか。

次は、キルケゴールの思想から、
究極の問いの答えを検証していきたいと思います。


日々いろんなことが起こります。
辛く苦しい毎日ですが、
共に励まし、共にすすみましょう。

セーレン・キルケゴール

何もかも、目まぐるしく変わっていく。
ケータイも、お菓子も、人もファッションも、
次から次とCMに流れ、ひとしきり街にあふれては消えていく。

「これって、かわいい」 「おいしい」 「面白い」
のワイワイガヤガヤも、やがてため息になっていく。

「歓楽極まりて哀情多し」
は漢の武帝だけではないようです。

それなりに充実している毎日なのに、
ふと何かが忍び寄る。

ハイテクや美味に囲まれながら、
気がつけば、心の空洞を不安な風が去来する。
青空を見ても、悲しみが止まらない。。。


「ああ、生きるって何だろう」



こんな声があふれているのが現代ではないでしょうか。

マルクスは、社会変革によって人間の幸福を確立しようとした。
しかし、人間の真実を見誤ったために、
今日、マルクス主義に基づく社会主義国家は、
全世界で消滅に向かっています。

マルクスとほぼ同時代、不安の根源を人間の魂に求め、
心の変革によって不安を乗り越えようとする
一人の哲学者がいました。

セーレン・キルケゴール。


北欧の小国デンマークに生まれた彼は、
生涯世間に背を向け、
ただひたすら自己を探究していきました。

近代合理主義が行き詰まった今日、
キルケゴールの思想は、
現代人に極めて多くのことを示唆してくれています。

22歳のキルケゴールは次のような手記を残しています。

「私に欠けているのは、
 私は何をすべきか、ということについて
 私自身に決心がつかないでいることなのだ。
 (中略)
 私にとって真理であるような真理を発見し、
 私がそれのために生きそして死ぬことをねがうような
 イデー(真理)を発見することが必要なのだ。

 いわゆる客観的真理などを探し出してみたところで、
 それが私に何の役に立つだろう。
 哲学者たちのうちたてた諸体系をあれこれと研究し、
 求められればそれについて評論を書き、
 それぞれの体系内に見られる
 不整合な点を指摘しえたにしたところで、
 何の役に立とう。(中略)

 キリスト教の意義を説明することができたところで、
 個々の多くの現象を解明しえたところで、
 それが私自身と私の生活にとって
 それ以上の深い意味をもたないとしたら、
 それが私に何の役に立つだろう。(中略)

 私に欠けていたのは、
 完全に人間らしい生活を送るということだった(中略)、

 私の実存のもっとも深い根源とつながるもの(中略)、
 たとえ全世界が崩れ落ちようとも
 それに絡みついて離れることのないようなものの上に
 基礎づけることができるのだ(中略)。

 私に欠けているものはまさしくこれなのだ。
 だから私はそれを求めて努力しよう。(中略)

 人は他の何ものを知るより先に
 自己みずからを知ることを学ばなくてはならぬ。

 こうしてまず内面的に自己みずからを理解し、
 その上で自己の歩みとそのたどりゆく道を知ったとき、
 そこではじめて人間の生活は安息と意義を得るのである。(中略)

 さあ、骰子は投げられたのだ。
 私はルビコン河を渡るのだ!

 この道は私を闘争に導くだろう、
 だが私はたじろぎはしない。
 過ぎ去った時を悲しもうとは思わない

 だって、悲しんだとて何になるものか。
 私は力強く前進しよう、(中略)
 見いだした道を駆けて進もう」



何とすがすがしい決意でしょう。
青年キルケゴールの燃える気概が伝わってきます。

キルケゴール 実存への三段階

こんばんは。
キルケゴールの思想、みていきたいと思います。

当時大流行したヘーゲル流の哲学体系を、
キルケゴールは拒絶しました。

ヘーゲル派の者たちは、
いかめしい体系作りにばかり没頭して、
肝心な自分の人生を見失っている。

理論で何でも説明できるという錯覚が
いかにバカげているかを、キルケゴールは暴きたてていく。
ほかならぬ、ヘーゲルの哲学用語と弁証法論理を駆使しながら。

そして彼自身は、「我、何をなすべきか」
を真剣に問うたのです。

「実存の最も深い根源とつながるもの」、
たとえ全世界が崩れ落ちようとも
「自分がそのために生き、
 そのために死ぬことができるような真実」 を求めて。


キルケゴールの欲したのはまさしく、
人生究極の目的だったのです。


キルケゴールは、人間の真の生き方に到達する道を、
三段階に分けて考えました。

実存への三段階
 といわれるものです。

第一は、美的段階
欲望の赴くままに、次々に快楽を追いかけ、
満たそうとする。

「今が楽しければいい。
 そりゃあ、いつかは死ぬだろうが、
 それまで、やりたいことを思いっきりやるだけさ」

といった生き方ですが、
有限な人間に無限の欲望を満たすことは不可能です。

たとえ一時、欲求が満たされても、
やがて倦怠、むなしさに襲われ、
自己を見失って、ついには絶望してしまう。


欲望を満たすことに挫折した人間は、良心に目覚める。
欲望を抑え、倫理的に生きようとする。

これが第二の倫理的段階
「このままではダメだ」 と現実の自己を否定し、
強い意志を持って道徳的善を実行し、
普遍的な自己を実現しようとする。

しかし、真の自己否定は成就されない。
否定するものも自己であるから、どこまでいっても、
否定する自己が温存されていく。

むしろ逆に、
「おれはこれだけ善いことをやっているんだ」
という傲慢さを伴って、一層強く肯定される。

結局、人間の善は、
自惚れを含んだ偽善にならざるをえなくなる。

一方で、真剣な善の実践は、良心の働きを鋭敏にする。
だから、これまで見すごしてきた
自分の悪、醜さが我慢できなくなる。

努力すればするほど罪悪感が付きまとい、
やがてまたしても絶望するほかはなくなるのです。

では人は、この絶望の淵から、いかにして救われうるか。
キルケゴールは言います。

真の宗教による救済以外にない
、と。

ここに、第三の宗教的段階への道が開けるのです。

死に至る病


絶望を乗り越えるためには、
絶望の本質を知らねばならない。

キルケゴールは 「絶望」 を 「死に至る病」
と名づけました。
むろんこれは、精神の絶望を意味している。

人間にとって、最大の不安、恐怖の対象は死でしょう。
しかも、人は必ず死ぬ。
だから 「人生の本質は絶望でしかない」 というのです。

昔から人々は、何かに依存することで、
死の不安、絶望から逃れようとしました。

これをドストエフスキーはこう書いています。

「個人たると全人類たるとに問わず
 すべての人間に共通する永遠の悩み」

「その悩みとは、
 『だれの前にひれ伏すべきか?』
 ということにほかならない」



たとえば、神への盲信とか、
厳格な合理主義への服従がそれです。

キリスト教会への信仰も観念論哲学もひとしく、
それらにすがることで心の不安をなくそうとしたのです。

しかしキルケゴールは、これらを偽物、
ごまかしであるとして捨て去った。

人間が真に依存できるものは、
実は何もないことを知っていたからです。


では、どうすればいいのか。。。


超世間的、絶対的なものとの関係が必要である、
とキルケゴールは言うのです。

絶対的なものとは、比較する共通の尺度を持たない
たった一つのもの、すなわち絶対者のみが呈示できるものです。

絶対的なものを求めることは
厳しい自己否定が要求される。
無限の苦悩を伴う。
それは相対的なものの追求を、
断念することになるからです。

この苦悩に耐えながら、
絶対者との関係を、自らの内面に確保しようとする。

ところがやがて人間は、絶対的なものとの関わりは、
自己の内にはないことに気づく。
自己の内面には、絶対者は存在していないことを発見する。

だから絶対者は、自己を超越した、
自己の外に求めなければならない。
人間は、絶対者という真理の外に堕ちるのです。

ここでキルケゴールは、
救済は 「信仰の決定的飛躍」 によってしか得られない、
と確信するのです。

『死に至る病』 には、こう述べています。

「自己を無限化することによって
 自己を無限に自己自身から解放する」

(絶対者との関係を持つことで、自己を解放できる)


「自己を有限化することによって
 自己を無限に自己自身へと還帰せしめる」

(失われた本来の自己を回復させる)



絶望の果てにキルケゴールが見いだしたものは、
「信仰」 だったのです。

そして彼は、やはりキリスト教に
それを求めざるをえなかったのです。
キリスト教の教義に関しては、
きまじめに本気で受け止めました。
比喩とか冗談扱いすることなど、
考えもしなかったのです。

聖書の記述を真理とし、
それを比喩や象徴的に解釈しようとする者すべてに対し、
容赦なく非難を浴びせたのです。

腐敗したキリスト教会への攻撃も
妥協を許さぬものだったのです。
そして彼は、熱烈に 「真のキリスト教」 を探し求めたのです。

しかし、ついにキルケゴールは、
最後までキリスト教を信じることができなかったのです。

信仰によって、不安、絶望を克服した人が得る
至福の境地を繰り返し思い描いて慰めとしながらも、
決して自己をごまかそうとはしなかったのです。

「真のキリスト教」 といっても、
それは幻想でしかないことを、
彼自身の悲痛な体験が、
はからずも暴いてしまったのです。


「ルターは九十五の命題を掲げた。
 私は唯一つだけだ。
 キリスト教はどこにもない」


キルケゴール、魂の慟哭でしょう。

真の救済は、信仰の中にあると理解しながら、
しかし彼にはこの信仰を持つことができなかった。

キリスト教を信じることを熱烈に欲したキルケゴールに、
ついにそれは不可能だったのです。

ニーチェ 「神は死せり」

こんばんは。
今日もよろしくお願いします。

ドイツの哲学者 ニーチェ は、
仮借ないキリスト教批判者として知られています。

彼は、キリスト教の神の権威をハッキリ否定した。
西洋文明において、
一切の存在意味と価値を与えてきた神を拒絶したのです。

次のような話を書いています。

「狂気の人間」 が、白昼にランプをつけながら市場へ駆けてくる。
「おれは神を探している!」 と叫びながら走り回る狂人は、
たちまち民衆の物笑いになる。

その人は言う。
「『神がどこへ行ったかって?』、と彼は叫んだ。
 『おれがお前たちに言ってやる!
  おれたちが神を殺したのだ(中略)!

  神は死んだ! 神は死んだままだ!
  それも、おれたちが神を殺したのだ!

  殺害者中のの殺害者であるおれたちは、
  どうやって自分を慰めたらいいのだ?

  世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、
  それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、
  おれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ?』」


この 「神は死せり」 というニーチェの有名な言葉を、
思想的に最も深く解釈しているのは、ハイデッガーでしょう。

彼は、論文 『ニーチェの言葉 <神は死せり>』の中で、
この 「神」 は、キリスト教の神のみならず、
プラトン哲学以来のもの、つまり、広い意味での彼岸の世界、
プラトンがイデアと名づけた 「真」 なる世界、
形而上学的世界全体を指している

と解釈しています。

したがって、ハイデッガーの理解によれば、
「神の死」 とは、

“プラトン哲学以来の、キリスト教も含む
 ヨーロッパ形而上学全体の終わり”


を意味するのです。

まさに正鵠を射ているのではないでしょうか。

ヨーロッパの文明、思想の原点は、
「はじめに神ありき」 です。
人間も他の動植物も天地自然も、
そこでは神の存在と意味づけを持ってはじめて意味を持つ。

ところがニーチェは、そんな神とか天国、
プラトンの言うイデアとかいうものは、
人間が作り上げた妄想にすぎない、と断定したのです。

このことは既成価値の根源からの否定を意味します。
西洋文明の中に生まれ育った人々にとって、
このニーチェの言明は、実に恐ろしい響きを持っていたことでしょう。

狂人

こんばんは。
今日も続けます。


「狂人」 の言葉に市場の民衆が耳を傾けないように、
現代人は、実は本心から神を信じてはいません。
無関心か、あるいは漠然と、神の残骸を信じているにすぎません。

神の残骸とは、キリスト教的世界観から生み出された、
理性至上主義であり、科学万能主義のことです。
これらはすでに20世紀になって崩れました。

現代における 「神」 は、
民主主義政治、グローバル自由市場経済、
「愛こそすべて」 のヒューマニズム等です。

ですが、神なき世界の人間は、
全く自己の存在意義を見失ってしまいます。
ニーチェはだから、ニヒリズムの到来を予告しています。


「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。
 私は、来たるべきものを、もはや別様には来たりえないものを、
 すなわちニヒリズムの到来を書きしるす」


「ニヒリズムとは何を意味するのか?
 至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。
 目標が欠けている。
 『何のために?』 への答えが欠けている」


「この思想をその最も恐るべき形式で考えてみよう。
 すなわち、意味や目標はないが、しかし無のうちへの
 一つの終局をももたずに不可避的に回帰しつつあるところの、
 あるがままの生存、すなわち 『永遠回帰』。
 これがニヒリズムの極限的形式である、
 すなわち、無(『無意味なもの』)が永遠に!」


ニーチェはここで、西洋哲学の終末を宣言し、
“私の思想は、100年後に理解される”
と予言しています。

現代は、まさにニーチェの時代。
大人から子供まで、男といわず女といわず、
こんな毎日の繰り返しに、どんな意味があるのだろう、
と感じる人が増えています。

“人生ってこんなものなのかな。”
誰もがぼんやり感じつつ、
見せかけの快楽に自らをだまし、だまされ、
「何のために?」 の答えのないまま、
日々をごまかしながら生きている。

生きようとする意志に燃えながらも、
心の中に、灰色のニヒリズムが、
実に深々と根を下ろしているのです。


そういうことでしょう。


確かなものとは何だ?
存在意義。完全なる達成。
それは、偽りのない何かである。
しかし、何もない。
何もかもあるようで、本当のものはどこにも見えない。

「人生いろいろ」
「みんな違って、みんないい」


という。
生き方なら、それでいいでしょう。
だが、「生きるのは何のため?」 最も大事なことが分からない。

大海にほうり出され、
島も船も見えない子供のようではないか。
一体、どこに向かって泳げばいいのか。

空と水しか見えない海は、
漠とした不安が広がるばかりで、
叫べども、泳げども、どこにも出口も救いもない。

大学のキャンパスや高級住宅街で、
明るい太陽の下、麻薬が売買されているといいます。
清純アイドルだった女優が、覚醒剤に手をそめている。

こうした倒錯した快楽や無差別殺人、
怪しい宗教・占い・迷信・スピリチュアリズム
などがはびこる本当の理由は、心の奥底にある。


 “生きることへの圧倒的な虚無感”



逆からいえば 

 “人生の目的への激しい飢餓感”


といえるのではないでしょうか。


平成20年6月の白昼、
東京・秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、
ナイフで切りつけ、十数人を殺傷する
という事件が起きました。

まさに現代の狂気です。
この報道を聞きながら、
漠然とニーチェの描いた 「狂人」 を想起したのは、
私だけでしょうか。。。


みゅうさんが到達した結論は、
ニーチェと同じではないでしょうか。

No title

>みゅうさんが到達した結論は、
>ニーチェと同じではないでしょうか。

似てますが全然違います・・・
私はこの世での虚無感だけではなく、あの世でも(あの世がある場合の話ですが)、やっぱり空しいと思うのです。。。何のためにあの世で暮らすのか?極楽浄土の中で平穏に安穏にくらすことすら、虚しく感じます。。。何故みんな至福を求めるのでしょうか?苦痛も何もない無の状態が一番なのではないのでしょうか?何しろ、苦悩がない状態なのだから・・・
幸せもいいけど、苦しみさえなければそれで満足とは思えないんでしょうか?何故、そんなに至福を求めるのか・・・・それって、この世での欲望と同じだと思います・・・・

極楽浄土

至福を求めるよりもむしろ、
苦しみ悩みのないことを求めるべき。
そうだと思います。

極楽浄土とは、どんな世界なのか。
釈尊は、阿弥陀経に説かれています。


「その国の衆生は、もろもろの苦あることなく、
 ただ諸の楽のみを受く。かるがゆえに極楽と名づく」
(阿弥陀経)



なにしろ苦悩がない状態を求めるなら、
極楽浄土以外にないでしょう。

「無」 にはなりようがないのですから。

現代哲学の最高峰

我が家は、代々の浄土真宗。
父方の実家も、母方の実家も、浄土真宗です。

しかしながら、父も母も、
仏教を尊いと思いながらも、
仏教・浄土真宗の教えを知りません。

中学を卒業してすぐ実家を離れ、
集団就職で愛知県一宮市に単身でやってきました。
二人は職場で知りあって、結婚したのです。
貧乏でしたが、私は十分幸せでした。

私自身は、小学校のときに 「死」 の恐怖に直面。
小学6年だったか、中学1年だったか、
「ブッダ」 というマンガを読んで仏教に深い感銘を受け、
感心を持つようになりました。

中学、高校は、ほぼ部活と勉強だけ。
大学に入ってから、将来も含め、
人生について真剣に考えました。

その大学時代に、キリスト教や他の宗教、
哲学についても学びました。
同時に、本格的に仏教・親鸞聖人の教えを
徹底的に学ぶようになりました。

しかし、間もなく、ニヒリズムのほうがどう考えても正しい、
と思うに至りました。

弥陀や浄土、といっても、神や天国と同じで、
結局、人間の妄想にすぎないのではないか。
したがって、親鸞聖人の教えでいう
信心決定 (弥陀の本願に救い摂られること)
という体験も、自分勝手な思い込みではないのか、
と考えたからです。

そんな疑問を抱きながらも、
一方で全く仏教を否定し切ることもできずにいました。

数年間、ありとあらゆる科学、哲学によって
仏教を否定しようとしましたが、
詳しく学んでいくにつれて、私の抱いた疑問は、
一つ、また一つと解消していったのです。

仏教は、私が想像していたよりも、
はるかに知性的でした。

最後に残されたのは、
現代哲学の最高峰といわれるハイデッガーの哲学。

これによって仏教が真実か否か、
はっきり決着をつけようと、ハイデッガーの主著
『存在と時間』 を読み始めたのです。

マルティン・ハイデッガー。
この20世紀ドイツの大哲学者は、
実存思想の代表者と見なされています。

ハイデッガーの哲学は、神中心の世界観を捨て、
自分の心を中心にして周りの世界の成り立ちを
精緻に分析していったものです。

彼は、人間を 「死への存在」 と規定し、
不安の問題、不安から逃避している人間の在り方を、
極めて厳密に明らかにします。

その視点からまたニーチェの哲学も取り上げ、
いわゆる 「神」 というものは、
すべて我々の幻想にすぎないことを裏づけています。

ここでニヒリズムに、理論的根拠が与えられたのです。
ニヒリズムを克服しなければ、
真の宗教も真の幸福もありえないことが、
明らかにされたのです。

ハイデッガーの哲学は、ある意味で、
今日までの人類の最高の理性的達成でしょう。

真の宗教とは、むろん理性を超えたものでしょうが、
少なくとも、理性の熔炉を通過できなければ真実とはいえません。

ハイデッガー哲学という、
いわば理性の最高の溶炉を用いるならば、
偽の宗教はすべて灰燼に帰すでしょう。

仏教がこれを通過しうるなら、
そこに真の宗教と偽の宗教との相違点が、
鮮明に浮かび上がってくるはずです。

No title

ハイデガーは「存在と時間」において、「あるというのはどういうことか?」を明らかにしようとしたわけですが、結局、わからず、未完のままです・・・
不安の問題とかは、枝葉末節だと私は思うのですが・・・

>ハイデッガーの哲学は、ある意味で、
>今日までの人類の最高の理性的達成でしょう。

そうでしょうか・・・

でも、いつも丁寧なご説明ありがとうございます。

No title

ちなみに、この現実の世界で、お金や名誉などすべて満たされても虚しいように、あの世の浄土に行っても、虚しくなるような気がします。。。
至福、幸福、僥倖、、、だから何?って思い始めるような・・・

もちろん、浄土に行ってずっと満足し感謝し永遠に暮らす人もいるでしょう・・・
だけど、それは現実の世界でお金も名誉も人脈にも恵まれ、なおかつ、ますます意欲的にさらなる成功を目指す人と同じような感じがします・・・

要するに、満ち足りても、何故存在するのか疑問がいつまでもある人は何をやってもどこに行っても、浄土に行っても、虚しくなるような気がするんです・・・

No title

なにをやっても空しい。
なにを獲ても虚しい。
浄土へ往ってもその虚しさは変わらない気がする。。。

なにをやっても虚しいのは、
あなたの心が暗いからです。
苦悩の根源が解決されていないからです。
原因は暗い心です。

苦悩の根源 「無明の闇」 が破られたら、
虚しい心はきれいさっぱり無くなります。
ハッキリと解決します。

それ一つ教えられたのが、仏教。
親鸞聖人です。

No title

何故存在するのか疑問に思うことは暗いのでしょうか?

>なにをやっても虚しいのは、
>あなたの心が暗いからです。
>苦悩の根源が解決されていないからです。
>原因は暗い心です

そもそも心が明るい暗いとは何なのでしょうか?
周りの人たちを見ると、世の中楽しんだ者勝ちといった感じで明るく元気にワイワイ楽しんでる人が多いですが、そうなったほうがいいのでしょうか?仏教をやる人すら、私には、何故存在するのかもわからずに、何故浄土で平穏に過ごすのが人間の幸福なのかわからずに、ただ至福を享受するほうがいいのでしょうか?

No title

> 何故存在するのか疑問に思うことは暗いのでしょうか?
疑問に思い、考えることは大切なことです。
考えること、疑問に思うことが暗い、
と言っているのではありません。

すべての人が暗い心を抱えていますが、
それに気づいていない人がほとんどです。
目の前のことに夢中になることで、
暗い心をみないように、ごまかしているだけです。

それは、根本的な解決にはなりません。

みゅうさんのように、
真剣に真面目に自己と向き合っている人のほうが、
不安、苦しみの根本解決には近いでしょう。

「暗い」 とは、不安であり、不満ということです。
「明るい」 とは、安心、満足ということです。

みゅうさんが抱えている苦しみ、悩みは、
「無明の闇」 が根本原因です。
それが破られたら、すべてハッキリと解決します。

なぜ世界が存在するのか、という疑問も解決します。
なぜ私が存在するのか、ハッキリするということです。

なぜそう言えるのか。
私には、うまく説明できません。
私の言うことなど信じる必要はありません。

お釈迦様、親鸞聖人のお言葉を聞き求め、
疑って、疑って、疑いぬいてみて下さい。

阿弥陀仏の本願(約束)は、
みゅうさんのその疑い、苦悩を必ず晴らしてみせる、
というお約束です。

死んでからではありません。
生きている現在ただ今です。

お釈迦様・親鸞聖人の教えを真剣に聞き求めて下さい。
必ず解決できます。


若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生必ずさだまりぬ
(親鸞聖人)

難思の弘誓は、難度の海を度する大船、
無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり。
(親鸞聖人)

円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、
難信金剛の信楽は、疑を除き證を獲しむる真理なり。
(親鸞聖人)

噫、弘誓の強縁は、多生にも値ひがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
若しまた此のたび疑網に覆蔽せられなば、
更りて復曠劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、
超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
(親鸞聖人)

No title

ハイデッガーの 「世界内存在」 について、
書いていこうと思っていましたが、どうしましょう。

しばらくやめておきましょうか。

No title

解決することを信じて生きていきたいです・・・

ハイデガーは「存在と時間」未完ですよね。それと、ナチスに加担したというのもあるのか、戦後のハイデガーは方向転換して(というか「存在と時間」の考えが間違っていたような考えに至って)、その後とくに何も成果をあげられていないような感じがするのですが、、、

でも、興味ありますよ。世界内存在。

完成のない道

こんばんは。

哲学に完成ということはありません。
哲学だけでなく、文学も、芸術も、武道も、科学も、スポーツも、
どの道も、これで完成ということがありません。

だから、ハイデッガーの哲学も未完なことは承知しています。
現時点において、人類が到達しえた最高峰の理性・理論でしょう、
ということです。

ハイデッガー自身が納得していないのは当然でしょう。
完成していないのですから。
(いや、完成はないのですから。。。)

ハイデッガーの功績は、全く無駄ではありません。
誰にでもできることではありません。
すごいことです。

すごい人ほど、「まだまだ」 と思うものです。

「世界内存在」 ご興味があるとのことですので、
書いていきたいと思います。
きっとなにかの参考になると思いますので。

とはいえ、少し間をおきましょう。
私も根ツメすぎて、少し疲れましたので。。。(><)

私、怠け者なんです。すみません。

No title

ハイデガーは完成させられなかったのではなく、間違いに気づいたんだと思います。自信を持って自分で築き上げた城が土台から完全に崩れるくらいの根本的な誤りに気付いて、、、根本が間違っていたので、全部、間違いだったんです・・・

ヴィトゲンシュタインも論理哲学論考を著しましたが、のちに間違っていたと認めています。その後、失意のうちに建築家や庭師をして晩年を迎えてます・・・かれの言う「語りえぬものは沈黙せねばならない」が、間違っていて私は安心しています・・・語れないものであろうと諦めてはいけないと私は思うからです・・・

私が思うに、彼らのように、多くの人を圧倒するような雰囲気の人は、精神科で言う気分循環症や躁病、統合失調症のような感じがします・・・

大変でしょうからコメントはいいですよ。気が向いたらぜひお願いします。
といっても、私みたいな天邪鬼相手だと本当疲れることと思います・・・

以前、オウムの信者さんに勧誘されて、こちらが逆に質問攻めしたら、相手の方が降参して帰って行かれました・・・それほど、私はあらゆる可能性も考えるし、断言しないし、慎重なんです・・・

No title

はい、正直、大変ですし、疲れます。(笑)
気が向いたら、また書きますね♪

みゅうさんは真面目なんですよね。
それだけはわかります。
そして、妥協することなく追求したい。
いっぱい考えたほうがいいし、慎重でいいと思います。

ソクラテスの言う、「無知の知」。
私は知っているようで実は何も知らないんです。
本当にそうだなぁ、と思い知らされます。

世の中で断言できること。
それは、仏教・弥陀の本願だけです。

 「よろずのこと、皆もって、
  そらごと・たわごと・真実あることなきに、
  ただ念仏のみぞ、まことにておはします」
 (『歎異抄』)


弥陀の本願念仏のみぞ、まこと。

仏教を聞き求めていくと、
ツユチリの疑いなくハッキリ知らされるときが必ず来ます。
弥陀に救われた一念の時、ハッキリします。

ぜひ、仏教・親鸞聖人の教えを追究してみてください。

No title

はい、ありがとうございます。
いつも、励まされてます、感謝です!

私は、頑固とか融通が利かないとか、そういう性格ではなく、あくまでも、おかしい、違うんじゃないか?と思ったら、あやふやなまま何となく納得することは絶対しないんです・・・

中学受験のときに通っていた進学スクールで、別な優秀な子が、夏に気温が高くなるのは、日照時間が長くなるから?それとも太陽の照射角度が大きくなるからと、先生に質問していました。先生はわかっていないようでしたが、私も疑問に思ってました。単純な人だと、夏は日照時間が長いから暑いと単純に理解すると思いますが、実際には照射角度が高くなるからという影響の方が大きいです。それと、その時の私のもう一つの可能性は夏は太陽の活動エネルギーが高まっているのではないかという可能性も考えてました。。。

これが絶対だと早合点するのではなく、次々思い浮かぶいろんな可能性を考え検討したいものです。。。

ハイデッガー 「世界内存在」

こんばんは。

ハイデッガーの「世界内存在」について。
気が向いたので、書いていきたいと思います♪


ハイデッガーは、人間を、
「世界内存在」 と規定しています。

(彼は「人間」という言葉の持つ多義性、
 あいまいさを避けるため、
 「現存在」という言葉を使っていますが。)

世界内存在とは、
すでにある世界の中に人間が住んでいる、
という意味ではありません。

そのような解釈は、たとえば、
地球とか、宇宙とか、そういう世界が
まず客観的実体としてあって、
その中に、多種多様の人間が住んでいる、
とする考え方ですが、これは誤りです。

世界を、客観的、普遍的実体として、
まず前提する考え方は、
キリスト教の神を中心とした世界観の名残りで、
仏教の世界観とは異なります。

ハイデッガーの言った 「世界内存在」 とは、

「世界の内に在る、
 という在り方をしているものが人間だ」


ということで、言葉を換えれば、
世界は人間(私)の構成分の一つだ、
ということです。

ハイデッガーはこれを、

「世界は、世界・内・存在として、
 現存在の自己存在に属している」

と書いています。

私の身体も、目の前の机も、床も、家も、周りの景色も、
すべて引っくるめたものが私だ、ということです。

なぜなら、目の前の机は、
子供時代からの思い出をすべて含めて
慣れ親しんだもの、として私には見えている。

そういう見え方をしている机というのは、
私の世界だけにあるものです。

その意味で、そういう机は、
私の世界の一部であり、私という人間の一部、
といっていいのです。

ここで、机という客観的実体がまずあって、
それに私がいろいろな思い出や、
意味を付与している、
という考え方をとらないことに注意して下さい。

客観的実体がまずある、という考え方は、
繰り返して言いますが、誤りであり、
すでに量子論によって否定されています。

まず 「ある」 のは、
そういう見え方をしている机であり、
客観的実体として考えられた机は、
そういう見え方をしている机の上に、
我々が作り出した幻影なのです。

これは、世界観のコペルニクス的転回
というべきでしょう。

「もの」 から 「こと」 へ、
「実体」 から 「関係性」 への
パラダイム・シフトです。

あるのは、実体としての 「もの」 ではなく、
「そのように見えている」 という 「こと」 なのです。

この考え方は、仏教の

 「三界唯一心 心外無別法」


という教え、世界観に近いもので、
あらゆる現象を心の中の渦と眺めてゆく
ことにも連なってゆきます。

つまり、哲学も、キリスト教の世界観を捨て、
仏教の世界観に大きく近づいた
といえるでしょう。


心が世界を生み出す、という言い方は、
我々の心が、実体としての机や、
実体としての地球を生み出す、
ということではありません。

心が、今までの心の歴史から
(仏教ではこれを業といいますが)
そういう見え方の世界を生み出す、
ということです。

これは単なる心理的投影ではありません。

心理的投影とは、その時の心理状態によって、
見え方が変わる、ということです。

たとえば、目の前に、一本のハサミがあるとする。
紙を切るものを探していた人にとっては、
普通の 「ハサミ」 として映るでしょう。

磁石がくっつくものを探していた人には
「鉄でできたもの」 として映るでしょう。

強盗に入られた人にとっては
「自分の身を守る武器」 として映るでしょう。

しかし、いずれの場合にも、
もしその人に、普通はこれは何に使われているものか、
と問えば、皆、紙を切るものだ、と答えることができるでしょう。

つまり、いずれの場合も、まずは 「ハサミ」 として、
それはとらえられているのです。

しかし、心が世界を生み出す、とは、
こういう心理的投影だけではありません。

その時の心理状態によって、
いろいろの用途にとらえられる以前、
いわゆる 「ハサミ」 としてとらえられること自体が、
すでに我々の心の成せる業である。

なぜなら、動物にとっては、
決して、そのX型をしたものは、
「ハサミ」 とは見えないでしょうから。

このような考え方から、
周りの世界は決して己を離れたものではなく、
その成立の由来から、己と深く関わっていることが分かります。

これがハイデッガーの言う 「世界内存在」 です。


ひとまず、ここで区切ります。
続きはまたこの次に。

続・世界内存在

こんばんは。

ハイデッガーの 「世界内存在」 について、
続けます。


では、そのように周りの世界の中の
いろいろなものが慣れ親しんで感じられる、
とはどういうことか、とハイデッガーは分析を進めます。


慣れ親しんで感じられる、とは、
それらのものが、私にとって意味を持つ、
ということです。



たとえば、この机は、書き物をする、
という自分の行為にとって役立つもの。

この椅子、というのは、座る、
という自分の行為にとって役立つもの。

こうして、すべてのものは、
私にとってどういう意味を持つか、
という見方のもとでそれなりの位置を占めている。

この、書き物をする、とか、座る、とか、
そういう自分の在り方を、ハイデッガーは、
存在可能性と呼んでいます。

すべてのものの意味は、
私のさまざまな存在可能性から、
導かれてくるのです。


「人間とは、自らの存在可能性に関わりつつ
 生きている存在だ」



これが、ハイデッガーの取り出した、
人間の根本的、普遍的在り方です。

どんな人間も、基本的には
こういう在り方をしているのであり、
人間である限り、こういう在り方を
免れることはできません。

そこで、私の存在可能性とは、
書く、座る、以外にも、歩く、走る、移動する、
などさまざまであり、それに対応して、
靴や自転車や、杖や、自動車が、
意味づけされてくる。

では、人間最後の究極の存在可能性とは、何か。
それは、死ぬ、ということだとハイデッガーは言います。

彼は、この 「死」 という存在可能性を
非常に重視しています。

人間を 「死への存在」 と言うのはそのためです。

それは私がこの 「死」 という存在可能性に没入した時、
今まで慣れ親しんで感じられた世界は、
すべての意味を失い、不気味な世界となり、
人間は 「不安」 という気分にさらされるからです。


人間が、自らの存在可能性に関わりながら生きる、
という在り方をしている限り、
人間は、世界を慣れ親しんだものに意味づけていると同時に、
その根本においては、
不安で得体の知れない世界を持ってもいる。


慣れ親しんだ世界と、不安で不気味な世界は、
表裏一体を成す、といってもいいでしょう。

人間は、その不安で不気味な世界から逃避して、
ふだんは慣れ親しんだ世界に住んでいるが、
根本においては、不安から逃れることはできない、という。

このあたりのハイデッガーの考えは、
仏教の説く 「生死一如」
(生と死は紙の表裏のように密接不離で切り離せない)
と同じことを言っていると考えていいでしょう。

『存在と時間』 の訳者・桑木務氏は、
ハイデッガー思想に基づいて、
人間存在の不安を、こう解説しています。

「このように人間存在・・・現存在は、
 ふつう本来的な自己自身から逃げだしている。

 これは不安に駆られているのであって、
 何か特定のものについて恐れをいだいているのではない。

 いわば得体の知れないこの世に投げ出されてきて、
 さて死んでまたどこへ連れて行かれるか、
 だれも知らない・・・われわれがこの世にある
 そのことが限りない不安なのである (中略)。

 こうしてわれわれの存在は終りへの存在、
 死への存在と考えられたときに始めて
 全体的に根源的に把握される」


No title

ハイデガーは人生を死に向かっているものであり、死について何もわからず不安だと思うのでしょうが、私は、死をことさら重大視しなくてもいいと思うし(ゴミを燃やすのにためらう人がいないように)、不安に感じることはないし(死んで無になる、もしくはあの世に行く、ただそれだけのことだし)、とにかく、自分というものが存在することが不思議で不思議で仕方ありません・・・何の意味もないとしたら、それはそれで構わないけど、意味があるならその意味が知りたい・・・

根本的変革

こんばんは。


人生の目的は、生死の問題の解決である。
と教えられるのが仏教です。

ハイデッガーの言葉でいうなら、
根本において死の不安につながれた世界を脱却する、
ということです。

しかし、そのためには、
「存在可能性に関わりつつ生きる」
という在り方に、根本的な変革が起きねばなりません。

それは、単に信じる、とか、明るく生きる、とか、
希望を持つ、とか、絶望する、とかいうことではない。

それらのものは、単なる存在可能性の一様態であり、
存在可能性に関わりつつ生きる、
という在り方に根本的変革が起こっていない限り、
「死」 という存在可能性に関わりつつ生きる、
という在り方にも変わりはないからです。

それならば、結局、幾ら劇的な体験だとしても、
根本において、死の不安からは脱却できておらず、
死の解決とは到底いえない。

一般の宗教体験といっても、結局それは、
一つの特殊な存在可能性が開かれたにとどまり、
存在可能性に関わりつつ生きる、という在り方そのものには
何の変革も起こっていない。
それでは本当の死の問題の解決とはいえないのです。


では、「存在可能性に関わりつつ生きる」 という在り方に、
根本的変革が起こった場合、理論的には
どのような事態が予想されるだろうか。

それは、今までの 「存在可能性に関わりつつ生きる」
という在り方が、いわば根本から否定され、その後に
新たな在り方が、出現する、ということでなければならない。

この 「新たな在り方」 というのは、
すでに哲学を超えた所に位置するもので、
到底想像できるものではないでしょう。

しかし、今までの在り方が、根本から否定される、
ということに関しては、
ある程度予測することが可能です。

それは、少なくとも、周りの世界の根本的変革を伴う。

なぜなら、周りの世界が、現在あるように見えているのは、
今までの 「存在可能性に関わりつつ生きる」 という
在り方があるからこそだから。

少なくともそれは、「周りが真っ暗になった」 とか、
「周りがどうだったか覚えていない」 とか、
その程度のものであるはずがない。

なぜなら、そういう表現では、
まだ、机は机、椅子は椅子として見えているだろうから。

それは心理的投影のレベルにすぎない。

その宗教的体験の時、自分が変わるだけで、
周りの世界が温存されるなら、つまり、
机が机、椅子が椅子、として見えたままなら、
それは真実の宗教体験ではないでしょう。

机が机、椅子が椅子、として見えるのは、
「存在可能性に関わりつつ生きる」 という
在り方があればこそ可能なのであり、
そういう在り方は、根本において
「死への存在」 だからである。

そういう在り方に根本的変革が起きるなら、
少なくともいったんは、机が机、椅子が椅子として
もはや見えない、という瞬間を通らねばならないはず。

換言すれば、己の成立の根源と周りの世界の成立の根源は、
同じところにあり (それは自らの存在可能性に関わりつつ生きる、
という在り方ですが)、自己の変革が、その根源から行われるならば、
周りの世界も、必ず同時に、様相を一変するに違いない、
ということです。

己のみが変わって、周りの世界が大して変わらないような体験は、
自己の非常に浅いレベルの変革にすぎず、
到底、自己の根源にある 「死」 という問題を解決したことには
なっていません。

要するに、その宗教的体験のさなかに、
周りの世界がどのように見えるか、
によって、その体験の深さをある程度推し量ることができるでしょう。


これが、ハイデッガーの哲学から導き出される結論です。


これが、宗教的体験を測るための物差しとして、
今まで人類が作りえた最も正確なものである、
といっていいでしょう。

信心決定という体験

おはようございます。

歳のせいか、最近 (いやもうかなり以前から)、
朝早く目が覚めて、その後、眠れなくなります。
特に、気になることがあると、よけいに。。。

さて、今日も続けたいと思います。
今日は、 「弥陀の救い」 について。

阿弥陀仏に救い摂られることを、
信心決定 (しんじんけつじょう) といいます。

死も障りとならない世界に雄飛し、
生きてよし死んでよし、
絶対の幸福に生かされる身となる。

これを 『歎異抄』 では、  「無碍の一道」 といわれています。 

人生の目的が、
生きているただ今、完成する体験、
だという。

そこで、私は、この信心決定という体験が
真実か否かを確かめるため、
一つの質問を用意した。

一見、どういう意味があるのか分からない質問かもしれませんが、
実はこの中には、西洋哲学二千年の歴史が集約されている
といっても過言ではありません。

それは、次のようなものです。

「死ということを全然考えないうちは、
 周りの世界は、疑いようのない絶対の現実としか思えないが、
 死を取り詰めてゆくと、周りの世界が紙芝居のように、
 虚仮であり、夢幻の世界というように見えてくる。
 では、信一念 (信心決定した瞬間)、
 そして信後 (信心決定した後)では、
 周りの世界は、それぞれどのように見え、あるいは感じられるのか」



信一念の体験を、親鸞聖人はこう説かれています。

“信一念” とは、
苦しみの根本原因である
無明の闇が破れた瞬間のことです。

無明の闇が破れれば、二つのことが同時にハッキリする。
その二つとは、 “真実の自己” と “真実の法”。

それが、『歎異抄』 には次のように述べられています。

「いずれの行も及び難き身なれば、
 とても地獄は一定すみかぞかし」
(真実の自己)


“いずれの善行もできぬ親鸞は、
 地獄のほかに行き場がないのである”



「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
 ひとえに親鸞一人が為なりけり」
(真実の法)


“弥陀が五劫という永い間、
 熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
 よくよく思い知らされれば、
 全く親鸞一人のためだった”



さらに驚くべき、このような表明があります。


「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
 万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、
 ただ念仏のみぞまことにておわします」


“火宅のような不安な世界に住む、
 煩悩にまみれた人間のすべては、
 そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。
 ただ弥陀の本願念仏のみが、まことである”



あまりに衝撃的な断定です。
この世の一切合財を 「そらごと・たわごと」 と言い切り、
「ただ念仏のみがまこと」 と喝破する。

ひょっとしてこれは、狂気の言か。
それとも、阿呆の世迷言か。。。

いや、そうではないでしょう。

だとすれば、何たる自信。
揺るぎなき確信。

魂の根底からの迫力とでも言いましょうか。
この一文に触れた瞬間、「これは本物だ」 という直感が、
全身を落雷のごとく走り抜けたのです。

これらの言葉が、どれほど大変なものか、
親鸞聖人と同じ体験がなければ、
正しく理解し、論じることすら、
いかなる哲学者にも到底不可能でしょう。

しかし、ただ、この時私にハッキリしたことは、
信心決定という体験が、ソクラテス以来の
西洋哲学二千年の伝統をもってしても、
とても太刀打ちできない、想像もできない深い体験なのだ、
ということだったのです。


これは真剣に聞かねばならない。
確かめねばならない、と。

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人生の意味を探り自分の生まれてきた理由・使命をただ純粋に知りたいだけ・・・

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