雑記

意識がただの脳の産物だと唯物主義になる人は大事な事を忘れている。僕と言う意識がなくてもちゃんと生きている他人のように、僕の身体だって僕という意識がなくてもやっていけるはず。なのに、僕という意識があるのは何故だ?
これに対する解答は、二つしかない。他人などいないか、他人にも僕の意識が形を変えて(その人のそれまでの人生に合わせて後天的に変化した僕の意識が)宿っていると。。。しかしそれでは、唯物主義的には前者は矛盾してしまうし後者は僕と言う意識現象が普遍的にこの世界にあるということになって、つまり、僕と言う意識層がこの世界の一つの意識現象全てを担っているという結論になってしまい、そこからさらに他人の意識にも説明がつくのかあやふやだ・・・いずれにしろ、僕という個人と他の人をも含めた全体への説明が難しい。きっと、やはり魂を考えなければいけないのだろう、つまり、心身二元論を。
神と言う意識にも考えは及ぶ。何故、僕は神の意識ではなかったか?神の意識はあるのか?他人に意識があるのかどうかは当の本人でないとわからないけれど、神に意識があることが神にしかわからず、僕に意識があることは僕以外には神もわかるのだとしたら・・・

同じようなことが時空にも言える。「何故、今ここなのか?」という問いが出てくるのだ。ここでなくてもあそこでもよかったし、今じゃなくても過去でも未来でもよかった。あの場所では、ここの自分がいなくてもちゃんと成り立っている。はるか未来の世界は今の自分がいなくてもちゃんと成り立っている。何故なのか?何故今ここなのか?現在から見た未来と過去の自分。誰も未来の自分を実感することはできない。また過去の自分を実感するのは錯覚に過ぎない。目的に従って努力する現在の自分とそれを成し遂げて充実した気分でいるかもしれない未来の自分。目的を成し遂げることよりも、それに向かって努力すること自体に価値があるので、未来の自分の状態に一気に移っても何の意味もないのだ。また、過去の自分はまだ努力をし始めたばかりの自分であり、今の自分はその努力が報われた自分。過去の自分が努力していた様を思い出しながら、その努力する様を大いに評価してあげる自分。極論を言えば、今の自分が過去からの努力に報われた状態でなくても構わないのだ。今が不幸だろうと幸福であろうと、過去の自分の自分なりに懸命に頑張ってきた姿に深い感慨を感じるであろう。しかし、何のために努力をするのだろうか?僕にはわからない。大いなる摂理の中で、僕と言うちっぽけな人間は常識的な努力をしながら生きるという皆がやっているやり方に僕も流されてやっているだけなのだ。しかし、頑張ってきた姿に灌漑深くなるのは一種の憐れみか?もし自殺した時の自分を想像するなら、そういう自分を評価するだろうか。それとも努力を放棄した自分を責めるだろうか。もし自分が別の人生を歩んでいて苦労するなく享楽的に一生生きてきていたら、そんな自分を振り返る時、過去の自分自身を感慨深く思うであろうか。それとも大して思うこともなく意義も意味も認めないまま肯定することもなく否定することもなくか。あるいは、もし、初め幸福であったのが段々不幸になっていくような人生であったら、過去と現在とを見比べながらやはり感慨深く過去の自分を思い出すであろう。幸せになろうとして過去の自分が努力していても報われないでいる現在の自分からすると過去の自分の努力は間違った方向だったとして責めの対象になるかどうか。とにかく手段が目的化しないようにとよく言われるが、実際は逆かもしれない。人間があくせく苦悩し努力する様は、人生を向上させようとするために役立つ手段・方法の一つになるけど、手段というよりも、すでに一つの目的にもなっている場合があり、その場合は目的は手段に過ぎなくなっている。
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人生の意味を探り自分の生まれてきた理由・使命をただ純粋に知りたいだけ・・・

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