苦しいと思いながら生きない・・・

『何のために生まれてきてこの先どうなっていくかもわからないまま生きるのは怖くないのか?ちゃんと人生の意味を知って、その上で生きていかなければ。他の人たちが何も考えず気楽に幸せそうに生きているからという理由だけで自分も何も考えずに生きていたら、最期、地獄に堕ちるかもしれない・・・でも、人生の意味を考えても考えてもなかなかわからない。こんだけ毎日考えているのに。。。また明日も考えよう・・・』

この考えは、強迫性障害に似ている。

『手すりを触ってしまった自分の手にばい菌がついてるかもしれない。何回も何回も洗おう。でも、何回洗ってもばい菌が完全に洗い落とせているか、不安だ・・・もっと洗おう。100回洗って、何とか、これくらいでいいだろう、でもちょっと心配だけど・・・はぁ、苦しい。。。』

という強迫観念に似ている。

その相違点について考えてみる。
不潔恐怖は、ばい菌が体に悪いという誤った考えに支配されているわけだ。ばい菌は確かに大量に身体の傷口に入り込めば感染症を起こすだろう、しかし、普通の皮膚に普通の量のばい菌は問題はない。さらに、感染性や病原性の強いばい菌はほとんど全くと言っていいほど普通の場所にはいない。
また、患者は、洗浄や消毒によって正常な皮膚が石鹸や消毒薬でダメージを受けることをきちんと理解していない。ダメージを受けた皮膚のバリア機能が低下して、あるいは、正常細菌叢が少なくなれば、かえって外からのばい菌が皮膚から身体内へ侵入するリスクが高まることも理解していない。
患者は、それらのことも理解しているかもしれないが、それでも、洗浄強迫は収まらない。何故なら、患者の一番の理想は、皮膚が不可逆的なダメージを受けない程度に洗浄・消毒して、とにかく、皮膚をばい菌ゼロの綺麗な状態にすることなのだから。

人生の意味を追い求めようとする人も、無理な理想郷を追求しているのかもしれない。
まぁ、しかし、実際に人生の意味を理解して幸せに有意義に生きていける可能性も全くないわけではないだろう。

ただ、やっぱり、人生の意味を知らずに地獄への道を歩んでいるかもしれないという不安・心配は、無駄・杞憂に過ぎない可能性の方が圧倒的に高い。。
そんな悪い可能性は、まるで、HIVウィルスが手すりについている可能性と同じくらい、極めて非常に稀なことだろう。

人生の意味を知らなくても、地獄に堕ちることはない。
何をするのが良くて、何をしたら悪いのか、そういうことはわからなくても、地獄に行かずに済む・・・

でも、人生の意味を知ろうとする(自分の精神を害しない程度に)のは悪くはないはず・・・



さて、話をさらにもう一段進めてみる。

強迫性障害は、自分の強迫行為に疲れてしまっている。強迫観念に苦しめられている。そういう苦しみの自覚がある。

これと対照的なのが、アスペルガー症候群かもしれない。

好きこそ物の上手なれ、という言葉があるが、他の人から見たら大変そうに見える作業も、本人が大変だと思わず、むしろ楽しく感じていれば、何回でも何十回でも何万回でも繰り返しおこなっていける。そして、上達し、極めていって、新しい発見をすることもできる。

統合失調症の常同行為が本人楽しんでやっているのかは疑問に思う。たぶん、そういう感情なく、無意識のうちにやっているだけだろう。

しかし、発達障害の限局的な興味、およびそれを繰り返しやっていく集中力は、きっと、本人にとって楽しいことなのだと思う。

とにかく、自分が毎日いつも繰り返しおこなっていることを、楽しく感じられれば、きっと、それは、うまくいくのではないだろうか?

つまり、何が言いたいかといえば、自分の信念で毎日やっていること(趣味や友を増やし人生を豊かにすることででもいいし、お金儲けでもいいし)は、自分がやってて楽しいと思うから、続けられるのだろうし、続けていければ、熟達していくであろう。まぁ、熟達していって経験値を上げても、大成するかどうかはわからないけれど・・・

人生の意味を探し求めるという作業も、もっと楽しく感じながらやらなければいけない。
生きていることが苦しいと思いながらやっていては、生きる意味を考えること自体も本当に苦しくなってくる。挫折感や絶望感で限界になってきてしまう・・・

釈迦が言う「人生は苦」なんか無視した方が良い。そんなことを言われて、確かにそうだよなあなんて共感するのは、占い師に不安を煽られるのと同じだ。

人生が苦しみなのか、何も報われることなく一回だけの人生でそのまま終わるのか、あるいは、死後も天国で退屈に過ごすのか、そんなネガティブな悲観的な想像は、強迫性障害の患者の不安を煽る無意識のささやき声、悪魔の声だ。無視していい。そんなのは、そうかもしれないけど、それよりももっと確率が高く、有益性のある、大切なことを見えなくさせてしまっている危険があるのだ。

人生、最終的には究極的には素晴らしいことを信じて、生きていけばいい(汚い一面や理不尽なことの多い世の中だけど、それでも、意味があると信じて)。

そういう人生の意味を探していくことを楽しく感じながら飽くことなく追い求めていきたい・・・

信じること、喜ぶこと、これらを常に感じながら、挑み続けるものに勝るものはないだろう・・・・

というか、もうちょっと、肩の力を抜いて、生きてみたい・・・
妥協や折り合いが大切なのだろう・・・


理不尽なことが少なくないこの世においては、人生は無意味と思いたくなるのは自然な考え方だ・・・
しかし
「人生は無意味」と当然に普通に思えるからこそ、逆に
「人生には、いや、すべてに意味がある」と考えるのもアリかなと思う・・・

人生に意味はないとネガティブに考えれば、人生に意味はなくなってくる。
人生に意味はあるとポジティブに考えれば、人生に意味は生まれてくる。。。肯定的に人生に対峙した方が良い・・・
意味があるかないか、人生を良くとるか、悪くとるか、その人次第で、現実は変わっってくると思う。



V・フランクルが態度価値と言っているものがある。われわれ人間が人生に意味を求めるのではなく、人生の方がわれわれに人生の意味を求められているのであり、それに対する返事をする態度のことが態度価値だ・・・
しかし、理不尽な人生にそれを見返すような人生の意味を出そうとすることは、まるで、株取引で保有株が下落している時に「いや、この株はこのまま下落するはずない、これは振るい落としに違いない。この銘柄はきっと反騰する!」と信じ込んで、ナンピン買いして、さらに下落、結局塩漬けして永遠に救われず損するようなものかもしれない・・・(何かの悪い出来事を、神からの賜物・恵み・試練と勝手に勘違いして、ポジティブにとらえてしまうのは、まるで、妄想のように、善と悪の区別ができなくなっている現実検討識の欠如した状態だ・・・悪いことは悪いと認識して、善後策を取るのが現実的だ。)
つまり、何が言いたいかというと、人生に対し、こっちの都合、思い込み、理想などで、良い返事を無理矢理出す必要はないのだ。つまり、人生の意味を無理矢理人間が作ろうとしてもダメであり、やっぱり、なるようになる、なるようにしかならないと、あっさり考え、過度な期待をせず、それでいて、楽観的になるのが良い、と思う。。。

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No title

人生の不条理さを人生の意味の追求によって意味的に埋め合わせることは不可能ではないか、と僕は思っています。したがって、みゅうさんが最後に出した結論(「…人生の意味を無理矢理人間が作ろうとしてもダメであり…」)と同じです。

人生の不条理さに関しては、人間はそもそも自分の意志によって生まれてきたわけではない、ということが大きく関係していると思います。

この世という世界に勝手に投げ出された時点で、埋め合わせることのできない大きな負債のようなものを負わされているのではないでしょうか。これを強引に解消することはできないと思います。

あと、僕も強迫観念と人生の問題に関係する文章を以前に書いたことがあります。(⇒http://naonao2011.blog.fc2.com/blog-entry-477.html)少し似ているところがあったのでご参考までに。結論はみゅうさんと同じです。

なぁさんへ

いつもコメントありがとう!参考になります。
なぁさんのブログ拝見しました。コメント書いときましたが、批判とか非難ではないので、お気を悪くしないでくださいね。
基本的に私は、自分の意見に反対の意見も賛成の意見もすごく参考にしています。両方の意見が出て、さらに昇華するのが本当の議論だと思ってます。
アウフヘーベンみたいなものかな。。。

今回の内容も、たしかに、強引に解消はできない命題だと思いますが、実は、それでも、私は諦めてないんですw

とにかく、あきらめずに、ポジティブに、地道に続けていかねば・・・
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Author:うーたんとみゅう
人生の意味を探り自分の生まれてきた理由・使命をただ純粋に知りたいだけ・・・

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