許しとは何か?

キリスト教での許し(赦し)とは何か?

別にキリスト教でなくてもいいが、許すとは何だろうか?


誰かが自分に危害を加えた後に謝罪して来た時、「許す」とした場合の、その「許し」とは何を意味するか? さらには「謝る」というのは何を意味するのか?

加害者が自分のした言動を悪いと認めること、および、相手の被害者に同情・申し訳なさ・後悔の念を表明し、もう二度と同じ過ちを犯さないようにすることを決意約束することか?

人間には忘れるという能力がある。従って、同じ罪を再び犯す可能性がいくらでもある。もちろん、罪を再び犯すさないように努力することもできるが、努力にも限界がある。
そして、犯した罪に対しては法外な慰謝料を被害者から請求されれば、「それはちょっと・・・」と償いを躊躇、もしくは逆切れしてしまう・・・あるいはいつまでたっても被害者から恨みつらみを延々と永遠に言われ続ければ、悪いことをしたという反省の気持ちから逆恨みの感情に変わってしまうかもしれない。

被害者も加害者が再び罪を犯したら、もう二度と許さないという気持ちを持っている。あるいは、自分の気の済むくらいまで加害者が謝罪しなければ許さないという気持ちもある。とにかく、条件付けの許しということになる。

イエスは無条件の愛を説いた。放蕩息子が親の元に帰ってくれば、親は息子を歓待する。もう一人の出来のいい長男よりも愛しているかのような大歓待をする。子供への愛は無条件だ。帰ってくれば、どんなにひどいドラ息子でも親は嬉しい(もちろん、現実のこの世では親不孝な迷惑行為を繰り返す子供はやがて親から見放され親子の縁を切られるが・・・)。従順な長男と、放蕩次男と、親はどっちを愛するか、そんな比較も無意味になってしまうほど、親は子供を無条件に愛する。つまり、良い子だから愛するのではない。家出してた子が戻ってきてくれた時は、その時だけは、その子を溺愛するだろう。だからと言って、いつも家にいる長男を愛していないわけではない。御馳走を出したり歓待したりすること自体は愛ではない。二次的な付随的な行為であり、愛そのものは行為ではなく気持ちであるから、長男にも次男にも等しく親は愛という気持ちを抱いているはずだ。目に見える形で判断してしまうと、二男の歓待を見て羨み嫉妬した長男のように真実を見誤ってしまう。

再び、許しとは何かについて考えてみる。
許しとは愛と等価なものだと思う。
許しは無条件であると思う。
加害者が謝罪してこなくても、許すことだと思う。
加害者が再び罪を犯しても、許すことだと思う。
加害者が反省せず、更正しなくても、それでも許すことだと思う。
いや、違うかもしれない。
やはり、放蕩息子が自分の非を認めて家に帰ってきたときのように、加害者が被害者に自分の非を認める気持ちを表明してきたときに、許すことなのかもしれない。

つまり、無条件ではなくなってしまうのかもしれない・・・

例えば、自分の子が殺人を犯してそれを反省せず裁判で死刑の判決が出たとき、親は子供を守ろうとするだろうか?金欲しさに強盗に入り住人を殺害してしかもそれをストレス発散になったと楽しんで、そんな殺人事件を三回繰り返した時、裁判は死刑という判決を下すことだろう。そんな判決を受けながら裁判官に暴言を吐いて悪態つくような人間が、自分の子だったら、きっと親子の縁を切るのが普通だろう。そんな子供は子供ではなく、もはや死んでくれと切望するのが、普通だろう・・・
もし、それでも、子どもを死刑にしないでほしいと願う親がいたら、その親の愛は無条件の素晴らしい愛だと言えるのだろうか?

やめよう・・・この喩えは極端すぎたかもしれない。
もっと現実的な議論に戻そう。

人間は誰しも、過去から現在に至るまでの間にいろんな罪を犯して生きてきている。自分自身の罪を許してもらえるとしたら、それが帳消しにしてもらえるとしたら、それでも、今後再び同じ罪を犯してしまう可能性は大いにあるだろう。いや、可能性というか、人間は現在を背負っている以上、罪を犯さずに生きることはできないといっていい・・・
許されるとしても、再び罪を犯してしまう人間にとって、許されることに意味はあるのだろうか?許されても、また罪を犯してしまい、そしてまた許されるという繰り返しでもいいのだろうか?あるいは、許されるのにあたって十分な反省が自分にきちんとできていなくてもいいのだろうか?そもそも、無知な人間が自らの罪を充分に認識できない可能性の方が高い。罪をしっかり自覚できてなくても、許されるのだろうか?そんな許しに意味はあるのだろうか?

アダムは神に責められたとき、あなたが創ったあの女がよこしてきたからあの実を食べたんですよ、と神に対して弁解というか逆ギレした。人間は弁解や不満を抱きながら、それでも謝罪することはできる。悔い改めというのは、心から自分の非を認めることなのかもしれないが、私自身の場合は、神に対してそんな100%自分に非がありましたと悔い改めることはできない。何故なら、罪を犯すように私を創った神にも責任があると弁明したいからだ。そもそも、無のままでよかった、この世に自分を創り出してほしくなかったという思いが根底にあるから・・・

主の祈りにあるように、他人を許すので私の罪も神よ赦して下さいというならば、私は神の非も許すので、私自身の罪も神よ赦してほしいと願うだけだ・・・

しかし・・・・

私が死後無に帰しても、私が存在したという事実は永遠に無くならない。例え、ビッグクランチでこの世が無に帰しても、それでもこの世がある時期存在していたという真理は変わらない。
将来神が私に至福をもたらしてくれても、天国に招いてくれたとしても、苦しかった人生の数々の出来事の存在は事実として永遠に残る。神が許してくれようと、歓待してくれようと、私には、私が存在する限り、つらかった苦しかった日々の記憶(もしくはアイデンティティ)は消せないし、消して解決ということに納得はできない・・・

許しとは何か?
結局、結論は出ないが、自分が何故存在するのか?人生の目的は何か?意味は?を考える重要なキーワードだと思う・・・


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人生の意味を探り自分の生まれてきた理由・使命をただ純粋に知りたいだけ・・・

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