動物の思考・・・


語感言語学
というブログで以下のような文章があった。

『多分、新皮質の余り発達していない犬や猫も自らをかわいそうと憐れむ感覚は持っていないだろう。ひもじいとか寂しいとか感じはするだろうが、だからといって、将来を悲観するようなことはないだろう。』

この箇所を読んでインスピレーションを得たのが、アフリカサバンナでハイエナに子鹿を攻撃された母鹿が、小鹿を助けるも、小鹿はすでに瀕死の重傷を負ってほとんど意識がない状態。周りにはハイエナの群れが取り巻き、母鹿は泣く泣く小鹿をおいて、群れに戻っていく・・・
この時、母鹿は、寂しい・悲しいといった感情にはなるだろうが、「何故?」「ハイエナよ、我が子をいじめるな!」「我が子よ、かわいそうに・・・」「私たち親子は本当に不幸だ・・・」とかそんなことは考えていないだろう。こういうことを考えるためには、「自分」および「他者」という概念がなければならないからだ。ハイエナを自分と同じような生き物とは思っていないであろう。人間が家屋に被害を及ぼす暴風雨を怨んでも、暴風雨を他者として説教しようとは思わないように。
自分という概念がないから、自分がすべきことはわからないし、初めから何をすべきか考えようともしない。ただ、本能に従って行動するだけだ。もちろん、小鹿を守るべきか、小鹿を置いて逃げるべきか、躊躇はするだろうが、その間考えているわけではなく、ただ、母性本能と逃避本能がせめぎ合って結論が出るのに時間がかかっているだけだろう。




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許しを請う、振り返る、何をすべき・・・(思いつくまま徒然に・・・)


謝る
謝罪する
許しを請う

これらは正確にはどういう言動・思いのことなのか?

自分が誰かに悪いことをした時
その相手に対して損害を与えてしまったことを、相手に対して申し訳なく思う、傷ついた相手の悲しみに対して同情する、相手の苦しみをできることなら自分が身代わりになって引き受けたいと思うことか?

それとも、

ただ、ただ、悪いことをしてしまった自分自身への後悔か?自分自身へ情けなく思うことか?

たとえば、

小学生の息子に厳しくしつけるため体罰をしてしまったとき、親は子供の成長を願ってやっていても、子どもは過度に厳しい躾け(言ってみれば虐待)でひどく心が屈折してしまうほどの傷跡を残してしまうかもしれない。
子どもが成人してもその歪んだ心の影響で引きこもり、NEETもしくはSNEPになって、親も自分の教育方針が間違っていたんだと悟る・・・
親は子供に対して申し訳なく思うが、それは、どういう気持ちか?

もちろん、親は自分自身を責めるが、それよりも、子どもを何とか立ち直らせたいという、そういう相手本位の謝罪だろう。

あるいは、別なケースとして、親が子供を甘やかして育てて、子どもは成人した時には犯罪者となって刑務所に入れられてしまったというようなケース。子も服役という苦しみを受け、親も自分の躾が悪かったのを反省しつつ、可能なら服役を代わってあげたいと願う・・・

あるいは、ちょっと別なケースでは、親が子供を甘やかして育て、子どもは成人した時、極悪人でありながら社会にのさばり享楽的な生活を送っているとしたら?子供本人は何も困っていないが(心の奥底では空虚感や焦燥感などがあるかもしれないが)、親から見れば明らかに非常に悲しいことであり、自分の躾が悪かったんだと反省しつつ、できるなら、子どもが更正することを願う・・・


いずれにしろ、親が子どもを育てていく中で、熱心であったにせよ、あるいは、仕事を優先させて子育てや教育・躾をおろそかにしたにせよ、子どもが成長し、立派な社会人となれば、親は、後悔や謝罪の気持ちなど持つわけがないが、子どもが不幸なあるいは反社会的な社会人になってしまったら、親は子どもに対する躾や教育を反省・後悔するだろう。例え、自分なりの信念や熱意で一生懸命育児していたとしてもだ!

もし、自分が「このやり方で正しいんだ!」と育児の方法に強い信念を持っていて、結果的に子供が幸せにならなくても、反省も後悔もしない親だったら・・・そんな親は非常に罪深いだろう・・・



聖書の中では、アダムとイブが善悪を知る木の実を食べたことが原罪だと言われており、そういった類の原罪を人類は皆もっており、人はそういう自己中心的な想いを悔い改める、神に許しを請うのが一番重要だと説明しているが、上記の親の育児に対する考察と併せて考えてみると、

まず、アダムらが行った罪は、神に対しては何の実害も与えていないだろう(おそらく裏切られた悔しみという精神的なダメージすら神にはなかっただろう・・・)。しかし、アダムらは神に対して許しを請わなければならなかった。相手に損害を与えていなくても、自分の行ったことが正しくなかった事実に後悔しなければならないのだろう。

先にあげた親と子供の話に戻って考えてみると、子供が悪人になって刑務所行きになろうとあるいは捕まらずに豪遊快楽な人生を送ろうと、親が子供に対して申し訳なく思う必要があるわけだ。

ここで、一番の罪は、自分のやっていること、やってきたことは、正しいと思っ
てやってきたことなのだから後悔はないと考えることだろう。あの時あの状況ではできる限りのことを自分はしたんだと自分を無理矢理納得させてしまって、独断的に、頑固に、自分の正しさを主張すること、それが原罪よりももっと罪深い罪になるのかもしれない。
そう、サタン・ルシファーのような独善的な考えが一番いけないのだろう。


くわえて、人生万事塞翁が馬であり、一寸先は闇であり、自分の言動が良い結果のまま続く保証はない。だから、今、悪い状況であろうとなかろうと、自分の行っていること、行おうとしていることが、悪い方向へ向かっていないかどうかいつも謙虚に省みた方がいいのだろう。。。


悪い事は何となくわかるけど、何が良い事なのかははっきりはわからない。自分では良いと思ってやっていることも本当は悪い事なのかもしれないから。
一体、何をすればいいのか、確信を持てないまま生きていき、いつも自信なく虚しく歩いていく・・・そんな自分にまったき善の神がそばにいて導き歩ませてくれていることを実感できながら生きていければどんなに安心だろう・・・

エデンの園でアダムは神に守られながら生きていた。そこには安心感が満ちあふれていたはずだ。まるで母の胎内にいる胎児のように。

神の言うことに従い、神の言いつけに従い、毎日毎日すくすく成長し生きていく。奴隷のように服従していると言うべきか、あるいは絶対信頼している親へ従順に従う子供のようと言うべきか・・・・幼な子は別にいやいや親に従っているわけではない。安心感と信頼で従っている・・・
例え、親から虐待を受けても、自分の為に親がしてくれているのだと信じて。いつかきっと理由がわかると。今は辛くても最後には笑えると信じて。


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頭が良いとは何だろう?

頭が良いとは何だろう?

記憶力か?会話力か?交渉力か?

そもそも、何故、今、人々は知恵を求めるのか?

大昔、狩猟採集時代は男性は狩猟するための肉体的力強さに大きな価値があった。もちろん、集団作戦での統率力も必要だったが。農耕民族時代になって、さらに、智慧が必要となってきた。そして、その中で大きな役割を担ったのが、言葉だ。そして、それを口頭か文書で次代に残す知識の財産。

言語のない動物の世界では、やはり、肉体的力強さ及び病気になりにくい丈夫な身体が、個体が生き残り子孫が繁栄していくための武器だった。

要するに、時代が変われば、価値観も変わる。何が一番価値ある物かは、時代の変遷に伴って変わっていく、進化していく。

今でも、もちろん、健康や運動能力に大いなる価値を持っているが、言語が創発されて、智慧知識がさらに価値ある物となっていった。これは今後も価値を持ち続けるだろうが、今後、将来において、智慧を超えて価値ある物が出現してくるだろうか?言語のようなエポックメイキングが発生して初めて新しい何かが価値を持つようになるのだろう。




前置きはこれくらいにして、頭が良いとは何か?

それは本質を見抜く力ではないだろうか?
たくさんの人間が暮らすこの世界の中で、対人関係において、本質を見抜いて対処する。それは相手の霊性を見抜く力でもある。霊性とは?

いや、頭が良いとは、合理的な判断力のことか?何のために生きるかを知らないで生きることも分からずに(少なくとも分かろうとせずに)生きていることほど不合理なことはない・・・

(また、支離滅裂な妄想めいた内容になってしまった・・・結論は出ない・・・)
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体験なしで知性だけで知る・・・

臨死体験をしたとか、何々の実験をしたとか、何々を科学的に証明したとか、そういう体験を通してしか、人は真理を知ることはできないのだろうか?デカルトが我思う故に我ありという真理を言ったように、何か論理か知性で知ることのできる真理はないのだろうか?
あの世に行ったときに何故自分は生まれたのかとか何故世界は存在するのかといったことを理解できるようになるとしたら、それは体験もあるかもしれないが、それ以上に、論理的知性的に認識能力が上がって、それで理解できるようになるのかもしれない・・・。
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意味がない?

意味とは誰にとっての意味か?

例えば、美味しい物を食べた時美味しいと感じるのは実際にそうなのだから仕方がない。
それを第三者が意味がないとか指摘しても仕方ないのだ。

この世界が存在することや人間が生きることに何の意味もないと考える人は多い。しかし、そういう人たちですら、子どもを持ち幸せな家庭を築くという平和を望んでいる人もいるし、一人で何か楽しいことを毎日やっていてそれで楽しいという人もいる。
何も意味がないならば、そういう平和を求める意味もない。しかし、意味があるから求めるのではなく、ただ単純に嬉しいから平和を求めるのだ。

何をしても意味はないし、人生は楽しいことをいっぱいやった者勝ち、自分のしたい放題好き放題に生きる、他人を押しのけても自分の得になることを求めると思う反社会的な人間ですら、自分の好きなことをするという価値観で生きている。価値観は意味と同じだ。それがしたいからするという理由や意味を持っているのだ。


植物が自然の法則に従って日の光の当たるところを好み、成長するのは、自然の法則に過ぎない。アメーバが餌の匂いを嗅ぎ取り餌の方に進んで捕食するというのも、自然の法則だ。これらはその受容器や化学反応の仕組みで説明できるし、さらにそのメカニズムも分子や原子の働きで説明できる。物質的な原理法則が延々と続く。ここには、意味も目的もない。

しかし、人間が何かを快不快で行動している時、何故それを快と感じるかを物質的なメカニズムで説明することは完全にはできない。

愛する人や子どもやペットがいるととても幸せを感じる。しかし、それは何故かと言われても理由は思いつかない。それが、脳の神経伝達の電気化学的な反応の結果に過ぎないというのか、どうかはわからないが、もし、愛する者と一緒にいることと、何もない無に帰することと、どちらかを選べと言われたときに、もし後者を選んだ時は脳の神経活動の結果と言えるのか?理性的に考えて考え抜いて自ら滅びることを選んでしまうようなものならそれはバグなのか?人類全体の繁栄のために必要なアポトーシスなのか?

もちろん、人類は欠陥品でやがて淘汰され別な素晴らしい知的生命体が進化誕生し繁栄するのかもしれないが。もしくは人類の中で進化があるのかもしれないが。


とにかく、意味や価値がないと思いながら生きている人間ですら、その人なりの何らかの意味・価値観・判断基準で判断行動している。そしてそれは、単なる脳の物理的、電気化学的反応の結果とは言えないと思われる(言えると根拠をもって断言できる脳科学者は少なくとも今のところいない)。。。




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Author:うーたんとみゅう
人生の意味を探り自分の生まれてきた理由・使命をただ純粋に知りたいだけ・・・

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