死ぬな

『死ぬな』

死ぬな(並木秀之・著)

この著作を読んで他の人に勧めたいとは思うのだが、少し話が冗長で、もう少し、具体的現実的にいろんな話を書いてくれたらなと続編なり詳しい半生記を期待している。
以下は、僕がこの著作から連想して考えたこと。

・生きているということは、いろんな可能性を生み出す。自殺を考えた人が生き延びて何年か何十年か生き続けていた時、自殺してしまっていたら味わえなかったような経験をすることができてるはずだ。良いことも悪いことも含め。
とくに、自分自身はさらに苦しい人生を送っていたとしても、他の周りの人たちにいろんな良い影響を与えているはずだ。
つまり、生きるということは、自分の為にというより、家族知人友人などや社会全体のために良い影響を与えているはず(もちろん猟奇大量殺人者が自殺するならその方が世のためになる、かもしれない・・・)。

・ハンディキャップやコンプレックスがあるほうが、人生の選択肢を狭めて、より具体的実践的な進路選択を後押ししてくれるはず。もちろん、プライドやメンツなどのよけいなコンプレックスは捨ててしまったほうがいい。自分に能力や特技がないという人でも、何かしらの興味や関心があるはず。その興味に向かって社会的活動につながる進路を進めばいい・・・

・人間の幸せは仕事や社会的地位や名誉やお金ではない。どれだけ、一生懸命生きているかであろう。



・波乱万丈忙しい人生を送っても、最後の最後まで報われないことも少なくないと思われる。しかし、報われる報われないといったハッキリした形として残らなくても、必ず、他の人や社会に良い影響を残しているはず。。。


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人生に対して自分は困っていない!

強制収容所の体験記などを読むと、人生において何が大切なのか考えさせられる。

有名な「夜と霧」の著者VEフランクルは希望を常に抱き続ける意志を持ち続けた素晴らしい人だったと思われるが(しかし、ここで彼を賞賛するつもりはないし、読者の方々がそれぞれいろいろ考えることが大切だと思うが)、

収容所体験をトラウマと感じた元収容者は、戦後も精神的にPTSDなどの精神的苦痛をずっと感じ、寿命も短かったらしいが、

大切なのは、苦難に対しても絶望しきってしまわないで希望を抱き続けることを忘れないことだろうなと僕は思う。


フランクルはユーモアの大切さを説いていた。



人生は苦しいし、つらいし、大変だ。悲しいことも多いし、死んでしまいたくなることはしばしばだ。


しかし、不平や不満を持ち続けてはいけないと思う。


ある方のブログを読んでいて、


他人に攻撃的な人は、自分自身が家庭や仕事に苦労や困難があるのだろうと書いてあった。


人を非難したり批判したり文句をいう人は、相手から嫌われる。いや、相手から嫌がられるから、そういう他人への攻撃がいけないのではなく、自分自身の問題を解決していくべきなのだろう。



人生に対して、自分は不満や不安や困難さを感じていない、持っていないと、胸を張って生きていきたい。困難はない!と無理やりにでも思い込むのだ。思い込みながら、他人に対して明るく笑顔で接したい。他人にユーモアで接し、他人をも励まし勇気づけたい。。。

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待つこと


ヨブ記は、結局、何が言いたかったのか?

僕はたぶん

『待つことが大事』

だと言いたかったんだと思う。。。

ヨブは神に祈り、自らの死を願ったものの自ら命を絶つようなことはしなかった。とにかく、祈り、願い、神の答えを待った・・・願い求めた、自分のこの苦しみの理由を、解決を。

待つこと・・・

苦しみもなく、楽しさに溺れ、ただ漫然と茫洋と時を過ごすのは、待つことにならない。

苦しみをしっかり自覚して、それを解決するべく動き、祈り、願う、この心の働きが待つことだと思う・・・

平和な日本、もしくは、現実主義的な現代日本ではある意味、みな、苦しみを感じることなく、現実的な楽しみを追い求めることで人生の暇つぶしをして、本当は目の前にある苦しみから目を背けている、、、それでは、待つ境地になっていない・・・


(独り言です・・・)
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幸福を得られなくても、苦難を経験しつつ幸福を求め続ければそれで良い

ただの仮説ではあるのだが、生きてこの世に居る間は人間は決して人生楽する為に生きているのではなくこの世界での各種問題点を実際に体験し感じるために生きているのだと思う。

もし楽しみや幸運を経験することが人生の目的だったら、楽しみや幸運の数が増えていくうちに虚しさを味わうのが目に見えてくるであろう。この世界での問題点、すなわち、苦しみや不幸を体験しつつ、それらを乗り越えることと、楽しみや幸運を目指して首尾よく獲得することに、違いはあるだろうか?

何が言いたいか?苦しみや不幸は乗り越えることに意義があるのではなく、とにかく、体験し、乗り越えたいと思うことに意義があるのだ。楽しみや幸運を体験しても、それらを体験した思い出、記憶が残るだけで、何か新規に発動する意志は存在してない。
苦難や不幸は人に意志を生じさせる。もちろん、苦難や挫折がひどければ、学習性無力感で絶望してしまうだけだが、現実には神は負えない十字架は課さないようにしているはずだ。
とにかく苦難を体験していればいつか報われるのではないだろうか・・・・
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必死さ 深刻さ 真剣さ

人生は苦境逆境の時こそ人生に対し真剣に深刻に必死になる・・・
順境もしくは平穏な時は人生に対し適当になったり刹那的になったり油断したりする・・・


もちろん、不運続きで、イライラしたり、不平不満を愚痴ったりするだろうし、もっと進めば自暴自棄になったりするだろう。しかし、そういうのは、本当に深刻に必死に真剣に悩んでいるとは言えないと思う。本気で苦しんで、本当にもうどうしようもなく、本当に切羽詰まれば、不平不満など言っている場合ではないだろうし、自暴自棄になったり、薬物やお酒で気を紛らわせてる場合じゃないはずなのだ!そんな適当な態度や、問題からの逃避は、根本的な解決には全然つながらないから。


そう、人の一生は、四苦八苦であり、常に苦しみという問題が付きまとっているのが当たり前で、仏陀が言いたかったのは、常に、真剣に苦しみに向き合う必要があるのだと思う。親鸞が必死に念仏を唱えよと言ったのも、常に人生四苦八苦を真剣に自覚し、この根本的な解決に向かうように意識を向けることが大事だと言いたかったのかもしれない・・・


必死に真剣に深刻に問題に向き合って根本的に解決するために、僕が取った方法は神に祈るだった。。。


それは自らの弱さ、罪深さ、知性悟性の乏しさをよくよく自覚し、それを神に告解し、その上で救いを神に祈り求めることだった・・・


自分自身の知力では解決できない・・・無知の知と言ったソクラテス、さらに、ソクラテスよりも前の時代に、メトロドロスは「(人は)何もわかってない。わかっていないということすら、わかってない」と言っていた。

2500年以上経っていても、この教えは変わらない。


人間の知性悟性には限界がある。どうしても、得られない「人生の意味」の答え・・・




もちろん、「人生の意味」を神に祈り求めて得られても、結局は、そんなのはどうでもいいから、この自分という存在が神によって生み出されることが、初めからなかったのが一番良かったという不満への回答は得られないかもしれないが・・・

しかし、この自分なんか生み出してもらわなくて結構だったという愚痴だって、本当に真剣に深刻に考えている態度ではないだろう。


きっと、神によって生み出されたわけではないのだろう・・・きっと、自分自身の意志か、もしくは、初めから自分は存在していたのかもしれない。。。
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Author:うーたんとみゅう
人生の意味を探り自分の生まれてきた理由・使命をただ純粋に知りたいだけ・・・

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