時間は存在しない



相沢義男氏の本
を古本屋で立ち読みした。


そこから考えるヒントを得た(この本自体には賛同はできない)。

カセットテープが再生されるような、この世界・・・

相沢義男
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愛に飽き無し

愛に飽きるということはないし、それよりももっと重要なことは、
愛には優劣や大小がないことだ。だから、一見ささやかな愛にも不足を感じることなく満ち足りた幸せを感じることができる。はずなのだ。

はずなのだ、と付け加えたことからもわかるように、多くの人たちは、ここを勘違いしていることがほとんどであり、
例えば、愛への希求にキリはないと勘違いしてたり…

仏教では、欲が苦の原因だというが、例えば、財産や名誉などを求めていくとき、いくら財産が増えても、いくら名誉が得られても、人間の煩悩が、もっと!もっと!と、さらなる欲にまくし立てられる。充足することなく、結局、虚しさを覚えていく。
しかし、本来の愛は、1人だけでも、愛する対象があれば、それだけで充分幸せを感じられるものだ。
もっと良い愛を、と更に求めるのは構わないけれども、実際にはその必要性はない。むしろ、多くの愛を求めようとするのは、本当の愛ではなく、単なる自己顕示欲だろうし、強い愛を求めようとするのも、本当の愛ではなく、単なる依存や逃避であろう。
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メタ認知

思考はどの程度自動的かで、その時の意識の次元が変わる


自動的な思考は、ルーチンの活動に過ぎず、意識も無意識に近い。
一方、自発的な思考は、意識的に発動させており、この時の意識こそが、本当のその人の意識だと思う。

生物は進化して神経系を発達させてきた。特に脊髄レベルの反射や小脳や脳幹での運動姿勢などのコントロール…人間にいたっては、無意識的な思考が大脳のどこかで自動的に行われてるが、これも、脊髄や小脳などと同じレベルだ。例えば、朝起きてトイレに行くとか、お腹が空いたら食事をとるとか、食後に歯を磨くとか、あるいは、外出の際に道順に迷わずにいつもの道を歩いて行くだとか、あるいは、車の運転も特に意識しなくてもいつもの手順で車を発進させ、交通ルールにのっとって運転するとか…これらは習慣化してしまい、数日経ってから思い出そうとしても細部まではよく思い出せないことが多い。

対照的に、自分は何故存在するのかとか、何のために生きるのかとかを考えてる時の自分は、意識としては、一番根本的な自分の意識と言えるのではないだろうか?ただ、後で何を考えたか、思い出そうとしても思い出せないことも多いわけで、変化や進歩がなければ、記憶は働かないのかもしれないけれど。


記憶があるからと言って、それが、意識のレベルとして高い次元にあるわけではない。楽しい出来事を経験して幸せな意識の記憶があっても、テレビを見ていて面白く感じた意識の記憶かあっても、仕事に熱中してワクワクしてる意識の記憶があっても、そういう時の意識は受動的な状態だっただろうから。

自己意識には、主体感、所有感、物語自己の三要素が重要らしい。
僕が思うに、自己意識はメタ認知の一種で、メタ認知自体にはメタ認知したものを記憶する機構があまり働いていないように思う。働いていないというか、あまり、まだ、発達してないのだろう。これが、発達したら、意識はさらに進化するのではないだろうか?
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他人の良いところはただ単純に良いと思えばいい

キリスト教のプロテスタントでは、セカンドチャンスという概念がある。

洗礼を受けていない人でも死後に救われるという考え。とくに、洗礼を受ける機会もなかった幼な子が亡くなった時には、何の罪もないまま亡くなったわけだからセカンドチャンスで当然救われるわけだ。それも、7歳までなら大丈夫と言う。


子供はいつから罪深くなっていくのだろう?

僕もちょうど8歳になってから親の都合で引っ越して、7歳までの生活と8歳以降生活とが区別されて記憶に残っているのだが、やはり我が強くなってきたのは8歳以降だと思う。

7歳まではすごく純真だったと思う。

友達のうちに遊びに行ってその友達のお母さんが優しいと、羨ましく思うよりもただ単に良いなあと感じてた。

しかし、8歳以降は自分の親や置かれた環境に不平や不満や疑問や憤りを持ち始める。他人を羨んだりするわけだ。

妬み、羨みは、罪であると聖書にも書いてある通り、他人の良いところはただ単純に良いと思えばいいだけなのだ。


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依存

愛(永遠の命)がなければ、たとえこの世のトップに立とうとも何の意味もない。
悪魔(仏陀)は人生は苦だと喧伝するが、愛があれば、そんなことはない。
しかし、愛があればこの世の苦しみも見えなくなり喜びや感謝で過ごせる一方で、愛が尽きればこの世の苦しみが前面に押し出されてくる。イエスは尽きることのない命の泉(愛)を与えようと言っていたが、結局、愛に依存していることにはならないだろうか?
そもそも依存とは全てに当てはまる。酒やギャンブル、ニコチンやカフェインだけでなく、スィーツやファッションや人との交流…全てが依存という現象だ。食べ物がなければ生きていけない、これだって依存だ…
愛も結局は依存なのかもしれない。
依存の定義はよくわからないが、依存をやめたいという自分の意志に反してやめられないのが依存の条件ならば、食べ物に頼りたくないという意志とは裏腹に身体がどうしても必要としてしまい空腹感という禁断症状があるのだから、依存を示しているのかもしれない。


依存症とは、その依存対象がなくなると禁断症状が出てきて、這ってでもそれを求めにいこうとする現象。例えば、アルコール依存の人が金がなくてもスーパーに行って万引きしてしまうように。アルコールがないと、禁断症状や離脱症状が出てきてしまうのだから、心理的な問題だけではなく、身体的にも身体が欲しているのだ。食物も万引きするかもしれないけど、なくなれば、渇望し、探索行動を始める。
愛はどうだろう?なくなれば、どうだろう?渇望し、探索する場合もあるし、諦める場合もあるし、初めから渇望もしないし、こんなものさとあっさり引き下がり、別の行動にいそしむ場合もあるだろう。

スマホ依存は、とりあえず手元にあるとゲームやSNSが気になって熱中してしまうが、子を持つ母親の愛情も、子離れできずに子どもに依存しているとも言えるのではないだろうか?
愛とは何なのだろう…

キリスト教で、常に神への愛





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